カテゴリ:掌編小説( 46 )

Orange【メロ君】

 ミューさんではない女性と会っている。週に一度。「地球にいた時はどこに住んでいたの?」と彼女は訊いた。「トーキョーだよ、話してなかったっけ?」と僕はズレた眼鏡をかけ直す。湖のほとりにあるベンチに座って話していた。目の前のランニングコースを市民ランナーが駆け抜けていく。歩いている人もある。太陽に見立てた空中照明がオレンジ色に発光して湖に沈んでいく。ベンチに座った僕たちの影が後ろに長く伸びる。「地球にいた頃のことを懐かしく思うことはある?」と僕はまぶしい光に目を細めた。すると彼女はこう言った。「懐かしいって思うこともあるよ。でもここに来なかったらあなたに出会ってなかったから、来て良かったと思ってる」。
「それは僕のことを好きってこと?」
「そうかもね」とはぐらかすその笑みはズルかった。そんな彼女との距離を縮めるように僕は追いかける。「僕が結婚しているのに?」。
「それでも構わない。ここって無機質なことが多いでしょう? だから虚無感に襲われることが多いんだけれど、あなたがその穴を埋めてくれるんだ」
 僕は彼女の言葉を噛みしめてから答える。
 「僕もそうだよ。君といると心が満たされる」
 空中照明の光がオレンジ色に水面を踊る。そろそろ彼女とお別れの時間。「今日は別れるのが寂しいな」と彼女は言った。僕も同じ気持ちだった。こんな気持ち初めてだ。僕は彼女のことを少しだけ好きなんだと知った。
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by nkgwkng | 2016-12-18 09:55 | 掌編小説

A Small,Good Thing【ミュー】

 何気ない日々を大事にしていきたい。例えば、メロ君のさりげない「ありがとう」を。淹れたてのコーヒーの香りを。お客さんとのささやかな会話を。雨が降り始めたばかりのアスファルトの匂いを。誰かの「頑張ったね」のひと言を。ねこが膝に乗っている時のぬくもりを。音楽に身を委ねる瞬間を。夢を見ている時の心地よさを。メロ君とねこの寝息が聞こえる真夜中を。春のような日和の陽射しを。メロ君とハグした感触を。メロ君が私の作った料理をおいしそうに食べているひと時を。スポーツジムで汗を流す気持ちよさを。ハイウェイを車で走る時の疾走感を。メロ君との軽いキスを。メロ君の笑顔を。メロ君の泣き顔を。メロ君がうたた寝している私にそっと毛布をかけてくれたことを……。
 こう考えてみるとメロ君は私の人生にとって大きな比重を占めていることがわかる。メロ君って私の日常に必要不可欠な存在なんだ。これが愛? だったら私にも少しわかる気がする。「愛してる」って私からも言ってみようかな。最初は腑に落ちないで言ってしまうかもしれないけれど、言っているうちに実感が湧いてくるものなのかもしれない。
 結婚してもう五年。退屈になりかねないメロ君との時間を、できれば色鮮やかなものにしたい。「愛してる」って私が言ったら、メロ君はどんな顔をするだろう。喜んでくれるだろうか。それとも驚くだろうか。そんな妄想遊びも何気ない日々のひとつ。大切にしたい。
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by nkgwkng | 2016-12-17 23:59 | 掌編小説

Love Gets Tired【ビスタ】

 アズゥは悪い人ではない。ただ思い込みが激しい人のようだ。自分にもそういうところがあるので、それを言える立場ではないが。
 アズゥに会うようになってからミューさんの店には行っていない。それは浮気のような気がするから。アズゥは僕がミューさんに気があることを知らないから構わないのだろうが、僕の良心が許さない。といってもアズゥを愛してると言えるかといったら疑問符がつく。ミューさんに未練のある自分がいる。それを知っているのでアズゥに嘘をついているようで嫌だ。いや、嘘をついているようでではなく嘘をついているのだ。嘘をつき通すのは疲れる。アズゥと一緒にいてもどこか落ち着かないのは、それに起因しているのだろう。
 アズゥとは会わない方がいいのかもしれないとも思う。でもアズゥはカフェ・ミューに行くことを止めないだろうから、ミューさんに会いに行くことはできない。いっそのこと、ミューさんへの気持ちをアズゥに打ち明けようか。いいや、それはできない、とんでもない。アズゥがヒステリックになりそうで怖い。
 アズゥに会うのが怖くなってきた。これ以上深い関係になる前に身を引いた方が良いのかも。でも僕は恋愛初心者だから、なんて言って会うのを断ったらいいのかわからない。
 実らない恋を実ると思い込んでいる時が一番幸せなんだな。多分、恋って。僕はやっぱりミューさんが好きです。でもどうしたらいいのかわかりません。誰か教えてください。
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by nkgwkng | 2016-12-16 21:16 | 掌編小説

A Cold Hand【アズゥ】

 ビスタとデートした。パークの天然芝の上に寝転んで空を見ながらいろいろな話をした。私がバツイチだという話、流産したことを今も引きづっているという話。ビスタといるとそんな言いづらいことも何気なく話すことができた。天候は天気予定通り晴れで、青すぎる空だった。ここの空は地球に比べて嘘みたいに青いから好きになれないけれど、その日の空にはいい印象が残っている。きっとビスタと一緒に見たからだ。私が「きれいな青い空」とつぶやくと「そうだね」とビスタは優しく笑った。勘違いかもしれないけれど、でもきっとそれは私を愛おしく想ってくれている優しい笑顔だった。私は思い切って「手、つなご」と言った。ビスタは無言で左手を空に向けてかざした。指と指の間の皮膚が透けて赤く見えた。それを握ると大きくて肉厚な手だった。意外と冷たい手だった。それをビスタに言うと「手が冷たい人は逆に心は温かいってよく言わない?」と私の目を見た。いたずらっぽい笑顔。その目の奥に私の顔が映っているのがわかった。中学生みたいに心が躍っている少女がそこにいた。私は幸せだと思ってそれを伝えたかった。
「個人的に盛り上がってまいりました」
 それを聞いたビスタは「アズゥって変わった人だよね」と破顔一笑した。私は右手から伝わるビスタの皮膚感を大事に、大切に想った。恋が始まる感覚。愛と言うにはまだ早いけれど愛おしい感覚。そんな予感がした。
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by nkgwkng | 2016-12-15 21:29 | 掌編小説

A Strange Cat【メロ君】

 ストアの裏で雨に濡れていた猫を拾った。ミューさんは「誰か」が拾ってくれるからと拒んだが、その反対を押し切ってしまった。ミューさんは「人間のそういうところがわからない」と笑いもせずに言った。
 ミューさんはアンドロイドだ。そのせいか愛情というものに疎い。僕は彼女のミューさんの不器用なところも含めて愛しているが、正直に言うとミューさんとセックスをしてもひとつに結ばれたという気がしない。大切に想って抱いても妙な距離感がある。虚無感で胸にぽっかりと穴が空く。ミューさんがアンドロイドだからか? そう思うこともある。でも恐らく僕の器が小さいためだろう。
 猫には「ねこ」という名前をつけた。それが気に入らないのか、声をかけてもねこは僕の元にはやって来ない。来ないからこっちから抱き締めにいく。その度に噛まれる。それでも僕はねこを抱き締めるのを止めないから手に生傷が絶えない。ねこは僕よりもミューさんを好んでいる。ミューさんはねこの相手もしない。でもそれがねこには気持ち良い距離感のようだ。夜は一緒にミューさんのベッドに入り朝はミューさんの顎を舐めて起こす。
 僕はねこから学んだ。ミューさんともある一定の距離を保とうと努めた方が、余計な虚無感に囚われないということを。僕はミューさんの愛情を追いかけるのではなく、彼女をそっと見守っていければ良いと思っている。それが僕に求められる愛し方なんだろう。
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by nkgwkng | 2016-12-14 21:13 | 掌編小説

What’s Love?【ミュー】

 お客さんがいなくなったカフェでの夕暮れ時。私はメロ君にコーヒーを淹れる。「ありがとう」とメロ君はコーヒーを一口飲んだ。私は自分に淹れた分のコーヒーを持って、メロ君の隣に座る。するとメロ君は言った。

「うまく言えないけれど、愛してる。こういう何気ないひと時が幸せだなって思うよ」

 そう言われて私は沈黙してしまった。メロ君の言ったことが唐突だったからではない。言っている意味がわからなかったからだ。

「ねえ、愛してるって何? 私が淹れたてのコーヒーの香りが好きなのと一緒の気持ち?」

それを聞いたメロ君は明らかに愕然とした。「ついでに愛って何?」と訊いたらメロ君は頭を抱えてしまった。私には愛の意味がわからない。だからそれを訊いたまでの話。メロ君は椅子から立ち上がり私を後ろからぎゅっと抱きしめた。「これが愛だよ」とメロ君は囁く。それからキスをして、「これも愛だよ」。

私はメロ君を好ましく思う。少し気が弱くて頼りないメロ君が好きだ。お互いにテクノが好きなのと同じように。この「好きだ」という気持ちと「愛してる」は違う気持ちなのだろうか。メロ君は「似ているけれども、ものすごく違う」と怒った。似ているのにものすごく違う? そんな矛盾した話、有り得る? やっぱり私にはてんでわからない。私は人としての感情が薄いのだろうか。

「僕のために淹れてくれたコーヒーも愛だよ」

 私はコーヒーを飲む。苦々しい味がした。


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by nkgwkng | 2016-12-13 21:49 | 掌編小説

The Red Earth【ビスタ】

 操縦席から見る地球は赤だった。僕らが住んでいるコミューンからは地球は見えない。意図的にそう造られている。助手席にミューさんを乗せて、地球の本当の姿を見せたい。ミューさんはどんな顔をするだろうか。

 僕の仕事は全長二十メートルの人型ロボット「アシモフ」でコミューンの増築をすること。ここへ来てからずっとこの仕事をしている。今ではコミューンも随分大きくなった。月の十分の一くらいの大きさだろうか。

 それでもまだまだ足りない。ものすごいスピードでアンドロイドが生産されているからだ。ここで作られる最新型のアンドロイドは一目見ただけではそうだとはわからない。人口の半分以上がアンドロイドになった今では誰がアンドロイドなのかわからない。

政府はアンドロイドを増やして自分たちに都合の良い世界を作ろうとしている。人間は今や厄介な存在らしい。喜怒哀楽の情緒に薄いアンドロイドの方が与し易しのようだ。

赤い赤い地球。そこで何が起こっているのか。おそらく良いことではないのだろう。そうでなければ地球が赤いことを公言しないよう政府から口止めされる理由が見当たらない。守秘義務があるからその分給料も良い。それで満足している僕は政府の犬だ。

助手席にミューさんを乗せることは不可能だが、妄想することは止められない。ミューさんの顔を照らす地球の光は、赤くその産毛を染めるだろう。その横顔は美しいだろうか。
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by nkgwkng | 2016-12-12 18:18 | 掌編小説

Let'S Go Crazy【アズゥ】

深夜、ステーションのコンコースを清掃している。とはいってもすべてを「ナナァ」という流線型のロボットが自動でしてくれる。私はただナナァがちゃんと動くかを見ていれば良いだけ。私じゃなくてもいい仕事? そんなふうに考えると自分の存在が嫌になる。私は自分が嫌いだ。見栄や作り笑いや性欲や偽善にまみれた私。誰の役にも立っていない。

誰かのために生きたい。誰かに喜ばれたい。親と離ればなれになってしまった今ではその「誰か」がいなかった。でも最近あの人のために生きたいと思う「誰か」が現れた。行きつけの「カフェ・ミュー」で出会うあの男の人だ。流産したり離婚したり地球を離れることになったり、悲劇的だったこれまでの人生を、あの人とならリセットできるような気がしている。一方的に妄想しているだけだが。

地球に残された両親は元気でやっているだろうか。できることなら私も地球に残って、お父さんやお母さんと暮らしたかった。私はここへ来るような特別な人間じゃない。私はどうしようもない一人の女だ。

ナナァが清掃終了のサインを出している。両親のことを思い出したのは一瞬で、あの人のことばかり考えていた。あの人とセックスしたいと思った。私は頭がおかしいのかもしれない。もしそうなのだとしたら、とことん気が狂って何もかもがわからなくなったらいいのにと思う。そうなったらきっと自分のことが好きでも嫌いでもなくなれるのにね。


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by nkgwkng | 2016-12-11 21:35 | 掌編小説

【掌編小説】電球が恋をして。

まめじまくんは、首から上が裸電球だ。
だから小学校の頃はよくいじめられた。
そんな時に助けてくれたのが、
同じクラスのあかりちゃんだった。
「これがまめじまくんの個性なの!」と
いじめっ子に言い放ったり、
「やさしく光るところが素敵だよ」と
なぐさめてくれたりした。

そんなわけで小学生のまめじまくんは
彼女をそっと好きになった。
初恋だった。
まめじまくんの電球はふだん光らないけれど、
あかりちゃんと話すと明るくなった。
恋のせいだ。
恥ずかしくて苦しくて、ビガーと光った。
でも、好きだとは伝えられなくて、
そのままあかりちゃんとは
別の中学校に行くことになった。

それからは同じ市内に住んでいるというのに、
毎日の電車やバスでも、
休日のデパートでも、
お正月の大きなお寺でも、
まめじまくんはあかりちゃんに
偶然会うことはなかった。

小学校の卒業で会えなくなってから、
まめじまくんは中学、高校の文芸部で
いくつもの短い小説を書いた。
なんとなく、小説を書くことを仕事にしたいと
夢見るようになる。
物語のヒロインや登場人物のモデルは、
いつだってあかりちゃんだった。
ずっとあかりちゃんのことが好きだったのである。
彼女を思うとまめじまくんの電球はやはり光る。
だから小説を書いている時は
部屋に明かりをともす必要はなかった。

それから月日がさらに経った。
その年の市内のトピックスは
動物園に8年振りとなる新しいホッキョクグマが
2頭やって来たことだった。
そんな年始めの成人式のことだ。
まめじまくんは買ったばかりのスーツを着て、
成人式に出席した。
終了後のホールのロビーで聞き覚えのある声が、
彼の名前を後ろから呼んだ。
振り返ると、そこにいたのはあかりちゃんだった。

「まめじまくん! 久し振り。
変わらないなー。元気してた?」と
彼女がうれしそうに話す。

「うん、元気にやってるよ。
今は東京の大学に行っている。あかりちゃんは?」

「あたしはね、バイパス沿いの
大きな電器屋さんで働いてる。
そういえばさ、高校1年生の時かなあ、
まめじまくんを駅前で見かけたよ」

「そうなの? なんで話しかけてくれなかったのさ」

「なんか照れくさくてね。実はあたし、
小学生の時、まめじまくんのこと好きだったから、
ドキドキしちゃって」

ただでさえ着物姿のあかりちゃんは
とてもきれいで緊張するというのに、
まめじまくんはそんな告白をされたので、
彼の電球はこれ以上ないくらい強く光をはなった。
あかりちゃんが思わず「まぶしいよ」と笑った瞬間だった。

バチン!

と音を立てて、電球の中の細い線が切れてしまう。
まめじまくんの光る電気が消えた。
そうしたら彼はあかりちゃんのことを
何とも思わなくなった。
様子が変わったまめじまくんに
「大丈夫?」と声をかけて
心配してくれるあかりちゃんを
うざったいとすら思った。
なんだか元気も出ないし、
立ち話もそこで途切れたから、
まめじまくんはその場を離れようとする。

「ちょっと待って!」

あかりちゃんがまめじまくんの腕をつかんだ。
そして必死な顔で「うちの店で、
電球交換できると思うから、
いっしょに来て」と言った。
まめじまくんは嫌がった。
でもあかりちゃんは無理やり彼を引っ張って、
ホール前に行列したタクシーに彼を押し込んだ。
運転手さんに行き先を告げると
あかりちゃんは「大丈夫だから、
きっと直るから」とまめじまくんをはげました。
電球が切れたまめじまくんとしては、
なぜ彼女がそこまでしてくれるのか、
理由がわからなかった。
でも、心に何かがじんわりと染みるような感覚を
味わっていたのはたしかだ。
電器屋へ着くとあかりちゃんが
店長に掛け合って、
まめじまくんはさっそく電球を替えてもらう。

「これなら電線が切れる心配もないね」

あかりちゃんがそう言って
まめじまくんの頬に手を当てると
彼は明るく輝いた。
照れたのだ。
でも、もうショートする恐れはない。
裸電球からLED電球に交換してもらったのである。
まめじまくんは恋心を取り戻し、
思い切ってあかりちゃんをデートに誘った。

「御礼にさ、今度ご飯おごらせてくれない?
それが嫌だったら……、ううん、できれば動物園に
ホッキョクグマ観に行こうよ」

あかりちゃんは「うん、動物園も
食事にも連れてって」と笑った。



実を言うと、まめじまくんとは僕のことだ。
こんなお話を書いたのは3年前。
今は小説で成功しなくてもいいと思っている。
あかりちゃんが読んでくれれば、それでいい。
僕は最高の読者を手に入れたんだ。
明日、新しく生まれた
ホッキョクグマの赤ちゃんを観に行く。
僕らの子どもを、あかりちゃんのおなかに連れてね。

〈了〉
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by nkgwkng | 2015-11-24 00:00 | 掌編小説

【掌編小説】きみの名は(4/4)

そう言うと火野はトイレに向かった。
水田と子どもが二人っきりになる。
空気が冷たかった。
夜空の星が良く光っている。

「こんなに冷えるのに寒くないっていいな。
風邪もひかないんだろうね」

「いいえ、風邪ひきますよ。
その時はさすがに寒気を感じます」

「へえ、風邪ひくのかあ。
きみたちはどっちかっていうと
人間に近いのかな?
それとも魚に似てる?」

「どちらとも言えないです」

水田は最初こそ子どものことを
河童だと信じられなかったが、
その頃にはすっかり河童だと受け入れていた。

「もしかして亀の仲間?」

「それはないです」

「ないよねー」

水田と子どもの間に和やかな笑いが生まれる。
それは少しだけ水田が感じる寒さを和らげた。
ほどなくして火野が水の入った
ペットボトルを持って小走りで戻ってくる。

「河童、ほれ、水だ」

その言葉に子どもが感謝を言って、
ペットボトルを受け取り、
ジョボジョボと水を頭にかけた時だった。
「気持ちいい」と呟いた子どもの
身体が霞んでいき、半透明に透けていった。

「どうした、河童!」

差し出した火野の左手は
子どもの身体をすり抜けた。
火野も水田も何もできず、
じわりじわりと消えていく子どもの姿を
見ていることしかできなかった。

「ありがとうございました」

そう言い残して子どもは完全に消え去った。
子どもが持っていたペットボトルが
カランと落ちる。
火野も水田も呆然とするしかなかった。
5分くらいだろうか、
二人は黙ったまま
その場に立ち尽くしていた。
最初に口を開いたのは火野だった。

「あれ、河童のユーレイかなあ」

「ユーレイ?」

「災難にあって死んだんだ。
それも母親も死んで
離れ離れになったんじゃないかな。
それで、お母さんお母さんって
彷徨ってたんだよ」

「そうかもしれない」

「あのさ、もう一回、拝みに行かねえか?」

「ああ、そうだね」

それで火野と水田は再び参拝する。
二人とも子どもがお母さんと会えることを
強く深く願った。

          *

「写メ撮っておけば良かったな」

車に乗り込もうとした時、
冗談とも本気とも取れない口調で火野が呟いた。

「そういえば、あの子の名前、
なんて言ったんだろう」

水田は続ける。
冬の空気が凛としていた。
見上げた空には、
欠けた月が控えめに光っている。

「写真がないんじゃ、誰もこんな話、
信じてくれないよな」

火野が嘆く。
水田は何も言わずに
運転席に身体を滑り込ませた。
火野は白いため息をひとつ吐き、車に乗った。
それっきりふたりは黙り込む。
エンジンを掛けて車を発進させ駐車場を出る。
帰りの車中でも子どもの話はしなかった。

奇妙な夜からちょうど一ヶ月が経とうとしている。
あの夜のことを火野も水田も
家族や同僚、友人に話していない。
話したら嘘になってしまうような気がしたのだ。
河童は生きている。
これからも、ずっと、きっと、ふたりの心で。(了)
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by nkgwkng | 2014-02-16 12:35 | 掌編小説