工場 of the dead/無修正版

*中川よしのが
 生きていたという
 証拠の文章です。
 いつか私が死んだら
 読んでください。


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 最近、工場を休みがちな俺は、病気、びょうき、ビョーキ。
 鬱入った病。流行に敏感な俺。
 な~んもやる気しねえ。家出る気しない。
「体調がよろしくないので休ませていただきたいのです」
 会社に電話をすると必ず総務の壇れいさんが出る。あのビールのCMの人と同姓同名。彼女は朝青龍に激似だが、声は身震いするほど、かわいい。
「工場長に伝えておきます。ゆっくり静養してくださいね」
 そんなやさしい言葉に、うっかり恋をしそうになる。
 工場では優秀な人間が製造されている。俺がいなくても仕事はまわる。地球もぐるんぐるんまわるわけで、今日もゾンビは元気だ。
 この頃のゾンビ予報はよく当たる。昨日の晩ご飯どきに、俺んちに中年夫婦ゾンビが2匹侵入して来たが、予報のおかげで準備万端だったので、マタタビで撃退した。旦那のゾンビはメタボリックだった。
 以前の俺は割れた腹筋に憧れたが、今は「ダイ・ハード」のジョン・マクレーンのようなおバカに憧れる。ブルース・ウィリスはバカ映画がお似合い。
 人生は長すぎる。
 狂ってしまうか、バカに生きるかに限る。
 嫁はゾンビになってしまった。飼っている猫の「ね子」に噛まれたんだな。ね子は保健所からもらってきた気立てのよい女子だったが、楽天の田中マーくんにクリソツなノラ猫に噛まれてゾンビ猫となった。俺が嫁や、ね子に噛まれないのはなぜだかわからんが、この頃の晩飯はこんにゃくゼリーばかりなので、嫁に殺意があることは確かだ。
 まあ、あんまし稼ぎはないし仕方ないや。
「明日こそは工場へ行って一生懸命働き、まともな人間を製造しよう。そして、自分も立派な大人への階段を登り始めるんだ」
 その決意は毎朝目を覚ますと、消えてしまっている。見た夢を起きた途端に忘れてしまうように。


 だがしかし、印象深い夢もある。それはたいてい悪い夢。
 その夢のなかの俺は、悪という悪に手を染めた汚い大物政治家で、高層ビルの最上階に事務所を構えていたのだが、そこへギャングが強盗に押し入って、千代の富士みたいな顔の女に銃を向けられたのであった。
「撃つな、取引しようじゃないか」
 俺はそう言ったのであるが、まったくもって無視され、眉間を打たれて死んだ。頭を撃たれたのでゾンビにもなれない。悪い人間すぎて天国へも地獄へも行けない。魂は行き場を失った。それは会社や学校の人々から意識的に無視される陰湿ないじめよりもネチネチしていて大変につらい。死んでしまいたいくらい。だけど、死んでるから死ねないわけで。無限地獄。
 幸いその夢は無限には続かなかった。ね子が俺の眉間をべろべろ舐めていた。おかげで俺はキャットフード臭い。ゾンビ猫がいまだにキャットフードを食べるとは不思議だな。
 嫁は顔の右半分が腐り始めていたが、毎朝元気に仕事に出掛けている。彼女が働く図書館の人々は寛容だ。嫁は職員やお客に噛み付いたりはしていない。
 とはいえ、いつか、いや、近いうちにゾンビの本性を表わすに違いない。まだかすかに理性が残っているから「ゾンビ心」を抑止しているのであろう。
 もし彼女がゾンビとなって罪を犯すなら、その相手は俺であってほしい。彼女に噛まれてゾンビになるなら本望だ。
 彼女が誰かに銃を向けられる状況になることだってあるだろう。その誰かは俺になるかもしれない。そのとき彼女を撃つことができるであろうか。そんなことを考えたら彼女との思ひ出をぽろぽろとリメンバーしたのであった。
 保健所から猫をもらってきたとき、名前を「ネコ」にするか「ね子」にするかモメた。彼女が「ネコ」で俺が「ね子」だった。彼女は一歩も退かんかったが、俺も1ミリとて退く気はなかった。
「ね子」の名前の由来は初恋相手の「林家ね子」さんだ。小学5年生のときに同じクラスだった女の子で、鼻の穴が大きい子だった。英語の発音がハーゲンダッツのバニラのようにとてもなめらかで、ウーピーゴールドバーグによく似ていた。親父は売れない落語家だった。うちの嫁はそのことをもちろん知らない。
 結局、名付けについてどちらも退かなかったので、格闘マニアの原田くん立合いのもと、高田延彦のものまねで決着をつけた。勝負は俺の圧勝だった。原田くんは俺の高田延彦に笑いすぎて呼吸困難に陥り、3日間昏睡状態に陥ったくらいだ。
 工場は毎日大忙し。人間の製造はなかなか骨がいるのである。
 ゾンビになってからというもの、嫁は朝飯すらつくらない。かわりにこんにゃくゼリーがひと袋置かれているのみ。はじめはぶどう味だったので、それなりに満足していたが、ある朝突然、マンゴー味に変わった。俺が嫌いなテイスティ。彼女の殺意は増すばかり。
 ところがどっこい、こんにゃくゼリーをひと袋食べているたおかげでうんこがよく出る。
 オネスティ、とは誠実という意味らしい。
 誠実とはなんであろうか。


 つい最近のある日のことである。「レディス4」を見ながら、料理酒で軽く酩酊した後、町のスーパーマーケットへママチャリで出掛けた。夕食の買い出し。パエリアなんかつくろうかと思い、貝だのイカだのをカゴに入れてレジへ向かった。レジ係のおばちゃん・マツモトミツコは俺のお気に入りで、中学生のアイドルみたいに無駄に元気が良くて気持ちが悪い。そこがたまらん。俺はものすごく臭いチーズが好きだ。その感情によく似ている。
 赤面しつつミツコにレジ打ちしてもらった後、食材を袋に詰め、店を出た。そのときである。入口ですれ違った若いカップルにノラ猫が「ウギャイオッ」とシャウトして飛びかかった。女の首元を噛もうとしている映像をスローモーションで俺は見た。一瞬の出来事。俺は咄嗟にノラ猫をぶん殴った。30すぎのおっさんの俺であるが、これでも中学のときに、市中大会ベスト16のボクシング部の顧問にスカウトされたほどの中途半端な逸材である。それはそれなりに強烈なパンチであった。殴られたノラ猫はぶっ飛び地面に叩きつけられた後、釣れたてのマグロのように激しくピチピチしていた。
「兄さん、ナイスです!」
 若いカップルの男の方がそう言って俺を抱擁した。高橋マリ子似のステキな彼女は動揺のあまり右手の人差し指から小指までをべちゃべちゃ舐めていた。
 なんとなく嫌な予感がした。それは的中する。
 そのノラ猫は身体のほとんどが腐っておりしかも殴られた衝撃で首が吹っ飛んだが、紛れもなく「ね子」だった。
 パニックになった俺は「君の年金は大丈夫か」と抱きついた男に言い残し、ね子の死骸を拾って家に持ち帰った。そしてすぐに家の庭にね子を埋葬した。うちの庭はかなり狭い。「これこそ猫の額ほどの庭だなあ」と縁側に座り込んで呟き、しとしとと泣いた。先日蒔いたばかりの朝顔が芽を出していた。


 その日、嫁が帰ってきたのは、昨日と本日との狭間だった。ね子が死んだことを伝えると、ひと呼吸間があったあと「あ、そうなの」と言うだけであった。俺はその返事に呆気にとられた。
 彼女はね子を溺愛していたから、泣き叫ぶと思っていた。だがやはり、彼女の行動は相当動揺していた。嫁はおもむろに庭に出て朝顔の芽を摘みはじめ、すべてが終わったらかまぼこの板に「朝顔成長中!」と書いて庭に投げた。奇妙な行動にすっかり萎縮した俺は「こんにゃくゼリーのアロエ味って食べたことある?」と話を変えようと問うたら、「君はアロエそのものを食べたことあるの?」と訊くので、「ないです。てゆうか食べられるの?」と聴きましたらば、「アロエ味なんて嘘ぢゃ~。メロンパンはメロンの味すんのかボケェ」と竹内力のように凄むので、とりあえず彼女の耳元で「すみません」と囁いてみたら、嫁の耳たぶは餃子になっていて、教えてあげようか迷ったのだが、傷つくとアレなので黙っておいた。すると「明日、司法試験あるから寝る」と言って嫁は冷蔵庫を抱きしめて眠った。彼女が司法試験を受けるなんて初めて聞いた。
 次の朝起きると冷蔵庫に、赤ペンで走り書きしたメモが貼ってあった。
「ミイラになるのでもう君とは一緒にいられません。さよウなラ」
 冷蔵庫の中にはハーゲンダッツのマンゴー味がいっぱいに入っていて、それは溶けはじめて甘ったるい香りを放っていた。
「ミイラぢゃなくてゾンビだろ」
 俺は呟く。前夜に引き続いて熱い水滴が頬を伝った。


 嫁が出て行った事実を受け止められず、放心していた俺の頭から、次第に蛆虫や蛇がわいてきた。なんだこのカンジ。絶望や暗闇が俺の精神を食い始めた。俺は狂ってきた。鬱病とかそういうレベルではない。前からすでにそうだった。それでもなんとか普通の人間のふりをして社会に適応してきたつもりであるが、愛する妻とね子を失い、いよいよメッキがはがれた。
 気がついたら奇声を発しながら清原のサインが入った木製バットを振り回して家中の物を破壊していた。本棚、ステレオ、パソコン、洋服ダンス、仏像などなど。ガスレンジを投げたらガスが漏れて部屋がガス臭くなったから窓ガラスを割りまくった。その最中尾崎豊の「卒業」を口ずさんだ。テレビはぶち壊しても煙はでませんでした。
 部屋に壊せるものがなくなったので、外に出てマイカーをボコボコにしていたら、警官が来て俺がボコボコにされた。俺はバットを振りまわした衝撃で両手の指を8本骨折し、左手の甲にヒビが入った。ガラスで右まぶたの上をザックリ切っており、顔面血まみれで暴れていたらしい。俺の精神は複雑骨折していた。そんなわけで警察病院に連れていかれた。
「あなたは精神のバランスが崩れています」
 警察病院の先生は言った。そんなこと、ずっと前から知っている。心のなかでそう呟いたら、先生は次に恐ろしいことを言ったのであった。
「病気の方は薬で治るでしょう。しかしながら、残念なことに、あなたは…、あなたは、ゾンビです!」


 先生からゾンビ宣告され、ドン小西と関口房朗の区別がつかなくなっていた。もちろんすぐに先生の言葉を「はい、そうですか」と聞き入れたわけではないが、鏡で腐り始めた背中を見せられたら、自分がゾンビになったことを受け入れるしか術はなかった。ひとつ屋根の下で暮らしていた嫁もね子もゾンビになったわけだし。
 スーパー銭湯にでも行ってサウナでさっぱりしたい気分であったが、強制的に入院させられることとなった。そもそも連行されてきた身でもあるし。
「入院したところで治るんですか」
「治りませんがチャンスが与えられます」
 先生は意味ありげな発言をして含み笑いした。
 チャンス?
 しかし考える間なく続けて「気分を落ち着けるための注射を打ちますね」と先生に言われ、看護士が俺の左手を掴んだのであるが、その手には殺意のようないたずら心に満ちていた。その看護士は西川女史に似ており、顔を見つめたらなぜか尿意をもよおしたので、「トイレどこですか」と聞いたら「お注射終わってからにしてくださいね」と至極真っ当な返答をされたから、足元にあったキムチを投げつけてやった。その後、西川女史にぶん殴られたのか、注射のせいか知らんが、そこで気を失った。
 目を覚ますと自分が働いている工場にいた。地上階は人間製造工場で、実はごくまれに社会不適合な人間が製造されることがあるのだが、そんな人間は地下のト殺場で処理される。自分は工場の地下で働いていた。つまり、死刑執行が仕事だったとうこと。
 起きたとき、俺は地下のト殺マシンの上にいたのであった。


 工場の地下には関口宏の「フレンドパーク」並に豊富なアトラクションが揃っている。ギロチン台やら電気椅子などのクラシックから、プレス機、輪切りマシン、急凍冷却室、焼却炉など。そのほかにも血がドバー、首がボーン、股がシュワーとなったりする処理マシンが多くあるが、どう表現していいのかわからない。とにかく人間の残虐的な英知を集約した工場である。
 そこに俺はいる。処理する側ではなく、処理される側として。恐怖が俺を支配していたが、そこにはあらゆる感情が混ざっていた。自分の小便を足にひっかけてしまった際の苦々しさ。電話口のかわいらしい声とはあまりにもギャップがありすぎる女へのがっかり感。取引先と打ち合わせのあとに鏡を見たら自分の鼻から鼻毛がガバーと出ていたときの赤面する感じ。あまり親しくない友達に「チャック開いてるぞ」と言えないもどかしさ。そんな感情に近いものがごちゃごちゃ俺の胸の奥でざわつき、巨大な恐怖とあいまって、かつて味わったことのない不安感に飲み込まれそうだ。このままでは殺られる。そう思った直後だった。上から声がした。
「逃げられないことは、よくわかってるはずだ。ふはははは」
 そのダミ声は工場長であった。なぜか天井からワイヤーで吊るされていた。そして言ったのであった。
「お前に隠していたことがある! お前は俺の息子だ!」
 なんだその唐突さは。お前は新庄か。とんだ茶番劇の始まりだった。


「工場長。仕事、無断で休んでばかりで、すみませんでした。それで、わたしがあなたのご子息というのは御冗談でしょう。まったく笑えませんね」
 工場長はジョージ・A・ロメロを崇拝している。
「冗談ではない。まあ、父親だというのは厳密に言えば正しくはないが、あいまいに言えば君は私の息子だ」
 工場長には中学生になる娘と5歳の息子がいる。
「言っている意味がわかりません」
 工場長の娘の名前は中々。息子の名前はエイドリアン。
「だから、つまり、その、君はここで生まれたんだよ」
 工場長を嫌う人はいない。
「はい?」
 工場長が飼っているパグは自分のうんこを食べる。
「もう一度言おう。君はこの工場で生産された人間だ。欠陥商品だったがね」
 工場長でNHK「お父さんスイッチ」に出演したい。
「嘘だ!」
 工場長、冷し中華始めました。
「本当だ!」
 工場長に俺は家まで送ってもらったことがある。
「嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!」
 工場長はホモである。あの夜、俺は部屋で工場長に押し倒された。拒否ったら次の日、地下の部署にまわされたのであった。
「わたしは今も君を愛している。だから君が欠陥商品だったのにも関わらず、処理しなかったんだ。地下の仕事をさせてごめんよ。君がゾンビになるなんて思ってもみなかったが、それでも愛しているんだ」
 俺も工場長を愛していた。
「工場長、実は俺も…」。
 工場長は佐藤浩市に似ている。


「工場長のこと愛しています…、って言うわけねえだろ、このきゅうりやろうっ」
 危ないところであった。衝撃の真事実を聞かされ、気が動転していた。思わず工場長が好きだなんて言ってしまうとこだったじゃないか。
「君が私を愛していないわけがないのだよ。素直になるんだ」
「俺が愛しているのは妻だけだ、バーカ、バーカ、うんこ~、うんこ~。お前なんか夢の島に埋められてしまえ」
「君のそんな子どもっぽいところもキュートだね。ところで君は妻を愛しているといったが、それは気のせいだ。それはつまり、君を製造する際にプログラミングされた感情だからね」
 俺は言葉に詰まった。
 妻との思い出は全部つくり話?
 妻が俺にかけてくれたやさしい言葉は嘘だっていうのか?
 工場長の言うことが本当なら妻は欠陥人間の俺となんで暮らしていた?
 妻は一体誰なんだ?
 てゆうか俺は俺なのか?
 頭が割れそうに痛い。かき氷を急いで食べたときのキーンよりもはるかに痛え。マイクがハウリングを起こしたときのキーンという音が脳の奥でカミナリを起こしている。脳みそを煮立ったみそ汁のなかにぶち込まれたように頭んなかが熱い。そのせいで目が溶けた。記憶が目ん玉からボロボロこぼれ落ちるのが見えた。高校の屋上からの青い景色、小学生のとき「セーラー服を脱がさないで」を友達と帰り道に歌った夕暮れ、病院のベッドで衰弱していく父親、バレンタインデーのそわそわした感じ、ファミスタの「ばあす」の猛打ぶり、彼女の鮮血、インド人がターバンを被ったままサウナに入っていたこと、冬に部屋干しした洋服が乾かない憤り感、猫の足音、妻のささやき、とかとかとか。
「そろそろゲームを始めようか」
 工場長のその言葉でハッと我に返った。
「君の目の先にある檻のなかで倒れているのは誰だと思う?」
 右足首は鎖で繋がれている。俺はプレス機の下にいて、ボタンひとつで漫画みたいにペラペラのぺしゃんこにされてしまう。そのボタンは電線コードをたどっていくと、10mほど離れた檻のなかにあった。そこに誰かがうつぶせで倒れている。ずっと死んでいるんだと思っていた。その檻の下には硫酸の水槽がある。ボタンひとつで檻の底が開き、檻のなかの誰かはあっという間に消滅する。そのボタンは俺の手の届くところ。これは何を意味するのか理解するのに時間はかからなかった。
「そこで倒れているのは誰だかわかるかい?」
 工場長はもう1度言った。工場長の声を合図にするように、檻のなかのそれは動いた。いや、うごめいたという表現の方がしっくりくる。ゆっくりと上体を起こしてこちらを向いた。長い髪が邪魔で顔が見えない。彼女は髪を掻き揚げた。
 それは中島美嘉のものまねをしたコロッケだった。気持ち悪いが結構似ている。メイクがひどい。本人が見たら激怒しそうだ。
 うん?
 いや、違う。
 彼女は中島美嘉に扮したコロッケなんかぢゃない。
 ゾンビと化した妻だった。


「春子!」
 妻の名前を叫んだ。だが春子はそれに反応しない。微妙に首を傾げ、「うわあぐぐっ」とうなってこっちを見ている。彼女の耳は相変わらず餃子だった。工場長はいつの間にか俺と妻の檻の間に立っていた。手には怪しげな緑色の液体が入った瓶を持っている。そして言った。
「これは青汁だ。どうだ、飲みたくないだろう。だが、これを飲むとゾンビ化をまぬがれることができる。人間に戻れるんだよ。これを君たちのどちらかにあげよう。
 おっと、わたしは公平な人間だからね。ゲームで決めるよ。ルールは簡単。わたしが出すクイズに答えてもらう。わかったら檻のなかにあるボタンを押すがいい。2問先に正解した方に、このステキな青汁をプレゼントだ。1問でも間違えたり、相手に2問先取された場合は…、わかってるね、ふははは」
 そういえば工場長は総入歯だ。こんなときにそんなことを思い出すなんて俺は結構冷静なのかもしれない。
「さて、第一問。これからわたしが歌う曲はなんでしょう」
 頬を冷や汗が伝うのがわかった。やはり俺は冷静ではないのか。
「いえーい、いえい、いーえい、いえい、りにあもーたーがーる、りにあもたーがーる」
 工場長は恥ずかしげもなパフュームの「リニアモーターガール」を口ずさんだ。てゆうか、答え言っちゃってるやんか。
 俺はボタンを押すのをためらった。もうゾンビになってしまった春子がクイズに答えられるはずがない。かといって2問正解してしまったら、春子は硫酸に溶けて死ぬのだ。工場長に弄ばれている。
 春子との記憶はプログラムされたもの?
 俺が工場で生まれたなんていうのは工場長のでまかせ?
 クソ、何を信じればいい?
 そうだ、信じるのは今、この瞬間に感じている感情だ。生きたいんだ。俺が工場で生まれた人間であろうと、春子との思い出がすべて嘘であろうと、自分が鬱病であろうとなかろうと、何がどうであろうと俺は生き続けたい。ボタンを押す決意をした。
 だが、すぐにためらった。やっぱり俺は春子を愛しているんだ。自分自身の生命を裏切るか、それとも春子を裏切るのか。板ばさみの俺。「がっでーーーーーむっ!」と苦悩の叫びがこだました直後だった。「ピンコーン」という音が工場内に響く。春子がボタンを押したのである。
「パフュームのメジャーデビューシングル、リニアモーターガール」
 そう春子が答えると「その通り!」と工場長は児玉清の真似をして正解を告げたのだった。春子は喜ぶでもなく、笑うでもなく、また「うぎぎぎぎ」とうなっている。それに比べて工場長の嬉々とした顔はどうだ。下心丸出しのエロ親父みたいな表情を見ながら、俺は思い出していた。「リニアモーターガール」をカーステレオで春子と聴いた午後のことを。


「この曲、なんか知んないけど、中毒性あるよね」
 パフュームの曲が流れていた。春子が持ち込んだCD。車は橋の途中で渋滞に巻き込まれている。橋の下では野球少年が汗を流している。春子は俺の言葉に戸惑っていた。
「ホセがそんなこと言うなんて意外だな」
 なんでと聞く前に春子は続けて言った。「昔のホセは商業音楽なんてクソ食らえ~って言ってたじゃん」
「そうだっけ?」と俺はとぼける。
「どんな人や音楽でも、いいところはあるってことがわかったのね」
「そんなことはずっと前からわかってたよ。それを受け入れることができなかっただけだな。この年になって受け入れられるようになったんだ」
 春子はわざと「ふうん」と興味のないふりをして窓の外を見た。歩道を走る自転車に乗った女子高生が、黒髪をなびかせて俺たちを置き去りにしていった。
「まあ年をとることはいいことばかりではないね。例えば中学生のときみたいな恋なんてもうできない」
「そんな恋がしたいの?」
「したいっていうか、懐かしく思うときはある。でも、なんつーか、その、春子とは『夫婦愛』っていうの? そういうものがあるから俺は幸せ」
 まだ陽が暮れないうちから何を言っているのだろう。「下手な言い訳」と春子は少し不機嫌そうに、でも少し微笑んで呟いたのだった。車はノロノロと走り出す。
「あたしはまだ、ホセと手を繋いだり、ふたりだけでドライブするとき、結構ドキドキするけどなあ」
 あのときの横顔を、この血の匂いがする地下で思い出した。あれは結構最近のこと。俺が製造されたあとの記憶だ。つくりものではない記憶。春子のあの言葉は本心だったのか?
 あのとき春子を愛しいと思った俺の気持ちは本当だったよ。


 とにかくだ、崖っぷちとはこのことだ。今は思い出にひたったり、葛藤している場合ではない。次の問題は何が何でも正解しなくては。そのあとのことは、そのときに考える。まさに今を生きる、だ。工場長からの第2問。「高杉晋作の辞世の句は…」
 ピンコーン! 問題を読み終える前にボタンを押したのは俺だ。マイミクの英くんから借りた「お~い竜馬」を読んだから知っている。俺は自信を持って答えた。
「おもしろきこともなき世をおもしろく」
 が、それは早トチリだった。工場長は無情にも続ける。
「その通り、高杉晋作の辞世の句は、おもしろきこともなき世をおもしろく。しかし問題はこのあとです。君はそのように生きていますか?」
 これってクイズなんだろうか?
 つーか、そりゃあないよ、工場長。
 だなんて愚痴ってるわけにもいかない。
 俺はボタンを押したんだ。
 答えろ、答えるんだ。
「…そのように生きてます…」
 工場長が俺の目をじっと見詰める。「クイズ$ミリオネア」のみのもんたのように、工場長は溜めに溜めた。ドラムロールが延々と頭んなかで鳴り響いていた。春子はぐったりと横になって自分のボタンを舐めている。目から血が流れている。髪を触ると無惨に抜け落ちた。その姿はゾンビ・オブ・ゾンビだった。
 運命の瞬間。工場長発した結果。それは「正解!」だった。工場長がそう答えた直後、春子は「はがぐぁ」と叫び、悔しがった。俺は複雑な心境だ。春子があんな表情を見せたからではない。自分が嘘をついたからだ。人生を面白くしようとだなんて思っていない。負けの人生を誰かのせいにして、愚痴ってばかりだった。工場長が出した2問目は、俺がどう答えようと正解だったはずだ。その答えは俺しか知らないのだから。
 どうせなら正直に答えていれば良かった?
 俺の人生、後悔と迷いばかりだ。


 さて、正解したはいいが、最後の問題でボタンを押すべきか、押さざるべきか、迷っていた。いや、混乱しているといった方が正しい。工場長はそんなことを知るよしもなく、次が最終問題であることを告げる。
「アー・ユー・レディ?」
 春子はその言葉に反応して、中指を立てながら両拳を突き上げたのであった。妙に興奮して工場長はロックスターよろしく、俺を指差してシャウトする。
「アー! ユー! レディ?」
「い、い、いえ~」
 俺は心の準備ができていないのである。「第3問。ボードゲームの人生ゲームの英語名は何?」
 答えは「THE GAME OF LIFE」。
 我が家には子どもの頃から人生ゲームがあった。なのに人生最大の賭けで一度も勝ったことがない。車に乗り切らないほど子沢山になったことがある。欲しくもない絵画を買わされて借金するのは腑に落ちない。政治家になると皆から嫌われる。ルーレットを強くまわしすぎてよく外れる。「人生ゲーム」くらい勝たせてほしい。
 …んにゃ、人生を勝ちたい。勝ちたいっていうか満足したい。
 ゾンビ映画の主人公はこういう場面で容赦なくゾンビになった肉親や友人を撃ち殺している。彼ら、彼女らのために。
 自分も逞しくなりたい。
 人生を強く生きたいんだ。
 俺のなかのもうひとりの俺が難癖をつける。「さっきまでの迷いや混乱はなんだったんだ!」。
 そんなの撤回、撤回、即撤回!
 決めた。
 春子はただじっと俺を見ていた。
 なんだよ、その逞しくて、愛しくて、悲しい目は。
 俺はボタンを押す。そして答えた。
「ザ・ゲーム・オブ・ライフ」。
「正解!」
 工場長が叫んだ瞬間、春子が硫酸のプールに落ちていった。そのときの春子の姿は人間のときの彼女だった。
 今までの俺を後押ししてくれたのは君。
 いちいちクヨクヨする俺を元気づけてくれたのも君。
 俺には君が必要だった。
 そのことを君が落ちていくときに思い出したよ。俺が君にした仕打ちはわかっている。「しょうがなかった」なんて俺は言わないさ。すべてを背負って生きていきます。
 工場長は笑い狂っていた。春子が溶けていく音はジンジャエールをグラスに注いだときの音に似ていた。
 青汁は激しくまずかった。


 結局、工場から出ることはできなかった。あの忌々しい地下工場からは解放されたものの、さらに地中深い地下の牢屋に閉じ込められたのである。
「約束が違う!」
 いくら叫んでも無駄であった。
 ここは地下何階だろう。この工場で働いていたのにこんな地下に牢屋があるなどとは知らなかった。
 どうやらここには8つの牢屋があるようであるが、閉じ込められているのは俺だけである。気配でわかる。
 牢屋の広さは4畳半程度で鏡のない洗面台、和式トイレだけという簡素なつくり。水道の出はかなり悪い。強烈に小便の匂いが漂っている。ベッドがあるわけはなく、粗末なゴザが一枚。片側はゲロ臭いので、そちらに足を向けて眠っている。かび臭い湿気がこの階を覆い、蒸し暑いからコンクリートの床に寝転がると冷たくて気持ちがいい。ただよく眠れるというわけではない。2時間眠れればいい方だ。起きると必ず身体中の関節が悲鳴をあげるのであった。そんな生活が続くので、俺は3日もしないうちに頭が狂ってきた。気が滅入ってくると、ブランキー・ジェット・シティの「ディズニーランドへ」を口ずさむことにしている。
 これは十数年前、親友のNPGくんがカラオケで歌って、その歌詞に衝撃を受けた曲だ。歌の主人公がノイローゼになってしまった友達にディズニーランドに行こうよって誘われるが、彼は気が狂っているので一緒に行きたくないという内容である。
 俺は戒めのつもりで、この曲を熱唱するのであった。
 退屈なときは(たいていがそうなのであるが)エアギターをして暇を潰している。ニール・ヤングの「ライク・ア・ハリケーン」は陶酔のしがいがある。
 あるいは「笑っていいとも」を観覧したつもりになって「そうですね」を一人連発してみたり、「クイズ100人にききました」のお客さんになりきって「あるあるあるあるある」と叫んでみたりもする。
 今朝は照英のモノマネをやってみたが、1時間練習したのちに実用性がないことに気がついた。
 そんなわけでますます頭がおかしくなっている俺であるが、どういうわけかゾンビ化の進行はしていないようだ。毎食出される青汁が効いているのであろうか。それとも俺の背中は何かの病気で腐りかけていただけで、ゾンビになりかかっていたわけではなかったのか。
 どういうわけかわからないけれど、生きているので、まあいいや。
 ところが、朝食の直後、生きている気がしない出来事が起こった。突然、奥の牢屋から「昔、中日にいた大豊の真似して」という男の子の声がしたのである。驚きのあまり固まって息もできなかったが、しつこく「やってよ」と言うので、仕方がなくやると「似てる~。見えないけど」と言って彼はカラカラ笑うのであった。
 いやいや、ここには俺しかいない。
 いよいよ俺も本格的にキチガイになったか。
 と思ったのも束の間、「山梨の実家に里帰りする中田英寿の真似して」などというむちゃな要求を彼はしてくるのであった。
 そのとき、彼が工場を脱出する術を知っているとは知る由もなかったのである。


 中田英寿のことを「中田氏」というのは違和感がある。何日間もそれによく似た違和感が俺の頭ん中を支配した。奥の檻に小学校高学年と思しき男の子がいるなんて、リアルに想像できなかったのである。そんなことを彼は知るわけもなく、無邪気に話しかけてくるのであった。彼は「機動戦士ガンダム」がとても好きで、劇中のセリフを事あることに口にするので、俺もそれを覚えてしまった。俺は「ザクとは違うのだよ、ザクとは!」というセリフが好きだが、それを彼に伝えるとバカにするように笑った。「何故だ」と聞けば「坊やだからさ…」と言ってまた笑うのであった。「ここを出たら一緒にガンダム見ようよ」と彼は言ったので俺は言った。
「もちろん、見ようぜ。約束するよ」
 でも俺はその約束を守れない。ここを簡単に出ることはできないだろうし、そうとなれば足手まといになる彼を連れていく余裕はないからだ。それを知ったら彼は悲しくて涙も流さないだろう。なのに彼は「ホントにホントの約束だよ」と言うのでせつなくなったが、続けて「ねえ、おじさん。泳ぐの得意?」と聞くので、「おじさんだから泳げねえよ」と言ったらいたく残念そうにため息をついたから、「なんでそんなこと聞くの?」と聞いてみるや、「泳げない人に教えたって仕方がない」と言われたので、大人げもなく腹が立ち「俺は泳げないが北島康介は俺が育てた」とホラを吹いたところ「チョー気持ちいいの人? チョー気持ちいいの人?」とかなり興奮するので、モノマネをしてやったら「腹が痛い、腹が痛い」と笑い死にしそうになっていたわけで、俺は「うんこすればたいてい腹が痛いのは治る」と言ったら、「うんこあるところ泳げば外へ出られる」と急に真面目になって彼は言うのでびっくらこいて、俺はハッとした。
 牢屋のトイレはボットン便所だった。
「この肥溜めが出口だっていうのかい?」
 にわかに信じ難い話だ。中田氏が特急「かいじ」の自由席に乗って、イタリア帰りみたいなファッションで帰省する姿を想像できないように、その話はリアルじゃない。俺はとうとう頭がおかしくなってしまったようだ。奥の檻に少年がいるなんて悪い妄想だ。しかしだ、俺が好きなZAZEN BOYSの向井氏は言っている。
「頭どんだけ狂っても生の実感は持っとこう」
 うんこは臭い。
 臭いは生の実感じゃあなかろうかということで、俺は彼のいうことを信じてみることにした。「ジャッカス」の映画第3弾があるのであれば、この武勇伝で売り込んでみたいものである。


 覚せい剤やめますか、それとも人間やめますかくらいの覚悟でトイレの穴に身を投じた俺であったが、意外にもそこは安いダンスホールだった。
 たくさんの人だかりで、気の利いた流行文句だけにお前は小さくうなずいた。お前というのはもう一人の俺で、DMBQのTシャツを着ていた。しばらくするとバンド演奏がはじまり、至る所でモッシュが起こっていた。俺はカウンターで芋焼酎のロックをオーダーして、ステージの模様を眺めていたのだが、機材の調子が悪いようで演奏は一時ストップ。その際、もう一人の俺がやってきて足を捻挫したよとなぜか嬉しそうに言い、芋焼酎を勝手に飲み始めた。その間、DJナポレオン・ダイナマイトが皿を回していて、ヴェルベット・クラッシュやらヴィーナス・ペーターをかけていたので懐かしいなと感じたが、もう一人の俺はなんだこの軟弱な選曲はと毒づいていた。
 演奏が再開すると痛めた足を引きずりながらも、もう一人の俺は再びモッシュのなかに消えた。彼は結局じん帯を損傷するほど暴れまくってライブを終えたが、だいぶ酔っ払っているのか根性なのか、歩いて家に帰った。
 本物の俺はというと、何かのぬかるみに足をとられて転びそうになった。そこにはバケツのくらいの穴が開いており、有明海のような細かい粒子の泥が存在していた。足が抜けたのは運がいい。
 フロアでジョー・ストラマーが踊っていて握手してもらったのも運がいい。
 ステージ上の遠藤ミチロウが投げたうんこを間一髪でよけた。ウンがいい。
 そんなわけで俺は躁になって、天井に穴が8つ空いていることになかなか気がつかなかった。バーカウンターで美和明宏とあっち向いてホイをやって上を向いたとき、ようやくひとつの穴を見つけて、そのあとは次々と天井にフラフープくらいの穴を見つけたわけで、スタッフをしていたルイージにハシゴを借り、あれが出口だと勇んである穴から顔を出したら、ハンマーで危うく頭をかち割られるとこだった。ある穴はのび太んちの机の引き出しに通じる穴だった。ある穴は猫のヒゲの穴のひとつだった。はたまたアコースティックギターの穴だったりもした。
 というわけで俺は、勢い余って誰だかわからない人生にその穴から侵入した。


 昼間、コーヒーを入れていた。のんびりとした午後。久し振りの休み。明奈は近所までタバコを買いに行っている。僕は小さなラジオから流れる曲に耳を傾けている。曲は井上陽水の「リバーサイド・ホテル」。僕は知っている部分だけ口づさんだ。でも、なかなかキーが高くて歌えない。中学生の頃は歌えたのに。当時、僕はこの曲のことをなんとも思わなかった。へんちくりんな曲だとさえも思わなかった。今聴くとずいぶんへんちくりんな曲だ。でも何気に心に染みる。ただ懐かしいだけだろうか。AMラジオの籠もった音質のせいかもしれない。僕はかすれた声で歌った。やっぱりヘタクソだった。
 外はだいぶ寒いが晴れている。寒くて晴れた日は空が青い。今日もそうだった。といっても僕は窓を開けて外を見たわけじゃない。明奈が出かける時にドアを開けるなりそう言ったのだった。開けたドアから冷たい風が入り込んだ。暖かいこの部屋に押し寄せるようにして入り込んだ。その風に乗っかってきた子どもの声。アパートの下にはちょっとした公園があって、僕はある夜、そのブランコに乗ったのだけれど、とてもサビついていて恐いだけだった。でも子どもは嬉しそうに声を上げて遊んでいる。
 何がそんなに楽しい?
 そう思う冷めた自分がいる。
 コーヒーはあまりうまく淹れられる方じゃない。明奈はなかなかうまくて、お湯を入れるタイミングだとか温度だとか量だとかいろいろ教えてくれたが、僕はよくわかっていない。というよりも、わかろうとしていないというのが正しい言い方だ。あまりコーヒーが好きじゃない。ではなぜコーヒーを入れているのかというと、明奈に頼まれたからだ。
「リバーサイド・ホテル」が終わると次に「なごり雪」が流れた。そういえば、小学校の音楽会でこの曲をクラス全員で歌った。なぜに「なごり雪」? 当時はわけもわからず歌っていた。今改めて聴くと、良い曲だと思う。思わず感情を込めて歌う。但し、オクターブ下げて。初恋の女の子を思い出した。
 君はきれいになったか?
 その声はどこへも届かずに自分のなかで消えた。
 アパートの階段をガンガンと駆け上がってくる音。明奈が帰ってきた。それも急いで。彼女はドアを開けるなり言った。
「ねえ大変! 衝撃の真事実発覚!」
 息を切らせている。何がそんなに大変だというのか。
「日航機墜落事故って覚えてる?」
「坂本九とか向田邦子が乗ってたヤツ?」
「そうそう。あれのさ、事故の本当の理由を教えてもらったんだけど、聞いたらびっくりするよ」
「そうなの。何その理由って」
「なんでそんなに冷静に聞いてるの?」
「そりゃ、本当の理由を知らないからでしょ」
「もっとさあ『何? 何?』って聞いてくれないと盛り上がらないじゃん」
「でも話したくて仕方ないんでしょ。早く教えてよ、なんなのさ」
「何だと思う?」
「わかんないよ」
「わかんないじゃなくて」
「うーん。操縦ミスとか?」
「それどころじゃないのよ」
「居眠り?」
「違う違う」
「何?わかんないよ」
「この話、トモコの彼の話だから確かなんだけど、あ、トモコの彼って新聞記者なのね、で、さっきトモコからメールで教えてもらったんだけど」
「何よ?」
「あれね、飛行機の故障とかじゃなくて、実は自衛隊が訓練してて間違えて撃ってしまったんだって!」
「ハァ? ウソォ。ウソだよ、そんなの。間違えないでしょ、普通」
「ウソじゃないよ、ホントだよ。新聞記者の間では当たり前の事実なんだって」
「それウソつかれたんじゃないの? だってさ、すごいたくさんの人が死んだでしょ。それが本当だとしたら、隠したってバレないわけないし、金でどうこうって問題でもないでしょ」
「トモコもトモコの彼もウソつくような人じゃないよ」
「じゃあ、彼女たちがウソつかれたんだよ。てゆうか、そんなの許されるわけないじゃん。誰も告発しないわけない」
「国家権力ってヤツですよ」
「えー、いくらなんでもそんなひどい話ってないだろー。それさあ、怪しい小説かなんかの話じゃないの? でも、本当だとしたら、とんでもないことだよ。日本腐りすぎだよ」
「だから本当なんだってば」
 なんでもない午後に国家の最高機密を知ってしまった(かもしれない)僕たち。だとすれば、暗殺されても不思議じゃない。とりあえず、今のところは大丈夫そうだ。狙われている気配はない。公園から子どもたちの声が聞こえる。お母さんの声も。そういう幸せそうな声を聞いていたい。幸せな風景を見ていたい。
 だからまだ死ぬわけにはいかないのだよ。
 国家の最高機密なんて別に知りたくもない。何かの間違いで知ってしまったとしても、戦うつもりなんてない。
 そんなことよりも、のんびりとした午後に、ゆっくりとコーヒーを飲みたいだけ。平凡でいいから、静かに暮らしたいだけ。
 ラジオは「セーラー服を脱がさないで」。明奈があの頭の悪そうな振り付けで踊って歌った。
「これ、バカな曲だよなー」
 僕も振り付けてみながら言った。
「そうだねー。でも、なんかかわいいね。無邪気なカンジがする」
「でも、つくってる方は腹黒そう」
「今よりはいいんじゃない?」
「まあそうかもね」
 コーヒーはとっくに淹れ終わっていた。部屋中にコーヒーが香っている。サーバーに入ったコーヒーを火にかけ、マグカップに注ぐ。ちょうどその時、新聞の勧誘員かと思われる人がドアをノックしたが、思いっきり無視した。居留守ってことはバレバレだけど、その人はすぐに諦めて帰った。
「ねえ、コーヒー飲んだら散歩にでも行かない?」
「別にいいけど、外寒かったよ」
「でも、天気いいんでしょ?」
「そうね、散歩するにはいいカンジ」
「じゃあ、あとで散歩しよう。でも、まずはコーヒー」
 ちゃぶ台を出してコーヒーを置いた。そのちゃぶ台はコーヒーやお茶のシミがついていて、誰も欲しがらないような安っぽいものだ。でも、初めはきれいな黄色だった。形はバーバパパみたいな形だからかわいらしくて、それを雑貨屋で見つけた時の明奈の反応は、おもちゃ売り場でピカチュウのぬいぐるみに遭遇した子どものようだった。その日からそのちゃぶ台はうちに住んでいる。見た目はだいぶ変わったけれど、愛着が出てきた。
 コーヒーを入れたマグカップは前の彼女と一緒に東急ハンズで買ったものだった。二つのうち一つはあまり使わないうちに落として割れた。生き残った方は自分用に買ったもので、あるとき彼女のマグカップをもう一度買いに行かねばならなかった。もう一度行った東急ハンズで、数年振りの友達と再会する。それがきっかけで彼の所属している草野球チームに入ることになるが、一試合目で靱帯損傷の大ケガをして3週間入院。その病室で友達になったバンドマンの彼女の友達、それが明奈だった。それからすぐ彼女に恋をしたわけではないけれど、明奈に出会ったそもそものきっかけは、前の彼女のマグカップを割ってしまったことだった。
 そのことを明奈は知らない。
 明奈が使っているそのマグカップが、前の彼女のためにもう一度買いに行ったものだということも知らない。話したところで僕たちの仲がどうこうなるというわけではないけれど、その話をしたら何日か明奈は機嫌が悪くなるだろうから話す気はない。
「何考えてるの?」と明奈が言った。女の勘というのは恐ろしい。
「いや、何も。強いて言えばどこに散歩行こうかなってことくらい。ところでコーヒーどお?」
 僕は話を逸らす。
「なかなかおいしいよ」と明奈は答える。
『なかなか』という言葉が余計だ、と思ったけれど、うまく話を反らすことができたのでよしということにした。
「あ、光GENJI」
 ラジオから流れてきた曲を聴いて明奈が言った。
「懐かしいな。これ、なんてったっけ? スターライト?」
「そうそう。なにげに知ってるじゃない」
「だってデビューしてからしばらくすごかったじゃん。6年生の時だったと思うけど、クラス中の女子みんなファンだったもん。そうじゃなかった?」
「女子? その言い方も懐かしい。私の学校もやっぱりすごかったね。下敷きに雑誌の切り抜き入れたり、雑誌持ってきちゃいけないのに持ってきてみてたり、私もそうだったけど、ホントに一人残らず光GENJIに夢中だった。恋しちゃう女子も結構いたし。今思うと普通じゃなかった」
「男子としてはさ、休み時間のたび、女子があっちこっちでキャーキャー騒いでたから嫉妬したよね。光GENJI? なんだよ、それってカンジで」
「小学生の男の子でも嫉妬するんだ。なんかかわいいね」
「かわいいもんだよ。それにしてもなんだったのかね、あの騒ぎは」
「なんであんなに熱くなったのかなあ」
「でも、急に冷めたカンジしたんだけど。中学に入った途端、冷めたっていうか。外から見てて思った」
「そうかも。急に光GENJIバカにする子とか増えたし」
「なんなんだよ、お前はっていう」
「そうそう」
 そんな話をダラダラ続け、僕は珍しくコーヒーをもういっぱい飲み、明奈はタバコを3本吸った。外の子どもの声はいつの間にか聞こえなくなっていた。その間にラジオが流した曲。爆風スランプ「RUNNER」、小泉今日子「木枯らしに抱かれて」、TMネットワーク「Get Wild」。その懐かしい曲たちは小・中学校の友達を思い出させた。卒業してから一度も会っていない友達が何人もいる。久し振りに会ってみたいようなみたくないような、そんな気分だった。
 家を出た僕たちは、歩いて30分くらいの公園を目指した。思った以上に天気は良く、空は青すぎた。風は少し冷たい。太陽の光は僕たちの影をくっきりと地面に焼き付けた。大通りを行くコースもあったけれど、あえて住宅街を歩いた。のんびりと行きたかった。
 あるごみ捨て場付近。朝、カラスが荒らしたらしく、ゴミが散乱している。そのゴミの中にピンクチラシ、コンビニ弁当のフタ、丸まったティッシュペーパー、公共料金の請求書が入っていた封筒、ポテトチップの袋。それを見て、知らない誰かの生活を覗いてしまったような気がした。ある家ではおばちゃんが2階のベランダに出て蒲団を干していた。蒲団を叩くパンパンという音が心地良い。平和な午後を感じさせる。その横では洗濯物が風に揺れていて、おばちゃんのものと思われる下着を見てしまう。「おばちゃんのは見たくなかった。てゆうか普通、外に干さないだろー」と呟いてみる。高校の前を通ると、狭いグラウンドを野球部とサッカー部とテニス部と陸上部が共有して使っている。元気な声が良い。あるカップルとすれ違った。その高校の生徒。初々しいカップルで、特に女の子の笑顔が良かった。その彼氏のことが好きで好きでたまらないというような笑顔で。自分はもうそんな若い恋はできないなと思った。
 僕と明奈はその高校生カップルに刺激されて手をつないだ。高校を通り過ぎると急な坂道があり、登っていくうちにつないだ手が汗ばんだ。明奈の息使いが聞こえた。息を切らせていた。坂を登り切ったところの踏切で立ち止まる。電車が通過するのを待つ。5分くらい踏切は開かなかった。通りすぎる電車に僕はふざけて手を振ったが誰も相手にしてくれなかった。電車にはあまり人が乗っていな
かった。
 自動販売機で紅茶を買う。歩きながらそれを飲んだが、明奈は歩きながら飲めないので、そのたびに止まらなくてはならなかった。でも別に、そのリズムで歩くのも悪くなかった。紅茶を飲み切ったとき、猫出現。明奈はそっと駆け寄って声をかけようとしたけれど、猫は逃げてしまった。
「だから猫はヤダよ」と犬派の僕は言う。
「でも犬は人に媚びるからイヤ」と猫派の明奈は言った。
「やっぱり私、猫になりたいな。のんびりと自分のペースで生きるの」
 再び歩き出す。大きなマンションの脇を抜けるようにして歩く。
「でもさ、猫は猫で苦労あるんだよ、きっと」
「そうかなあ」
「そうだよ」
「犬になりたいと思う?」
「うーん。なりたいとは思わないな。しょっちゅう知らない人に頭撫でられて、うっとうしそうじゃん」
「自分だって撫でてるくせに」
「だって、かわいいから」
「自分勝手」
 駐車場で小学生が野球をしていた。プラスチックのバットとゴムボールで。バッターの男の子は明らかにイチローを意識していておかしかった。
「ねえ、猫を飼うとしたら、」
 今の小学生はクロマティを知っているんだろうか?
「なんて名前つける?」
 多分、知らないだろう。
「ねえ? 人の話聞いてる?」
「聞いてるよ。猫を飼うとしたらなんて名前つけるかって言ったんでしょ? てゆうか猫は飼わない。犬を飼う」
「じゃあ、犬と猫を一緒に飼うとしたら?」
「豪快な発想だな、それ。そうだなー、猫の名前は…、ユンピョウ」
「ヤダよ、そんな名前」
「ダメ?」
「ダメ」
「いいじゃん、猫っぽい名前だと思うけどな」
「私の友達でユンピョウファンいるよ」
「ウソでしょ? 今どき?」
「花屋に勤めててすっごい美人で、代官山に住んでる友達」
「変な人だね、その人」
「でも性格はいいんだよね。嫌味なほど美人なのに」
「へえ。珍しいね。そういう美人も。ところでユンピョウって今、何してんの?」
「さあ? 多分生きてると思うけど」
「そりゃ生きてるだろうね、ユンピョウだもん。あ、犬だったら絶対サモハンね」
「サモハンキンポー?」
「ジャッキーっていうのも捨て難いなあ。でもありきたりだな、それは」
「まじめに考えてる?」
「まじめに考えてるよ。サモハン、いいと思わない?」
「人前で呼ぶの恥ずかしいよ。だって、サモハンだよ」
「うーん、ユンピョウはイヤだな」
「でしょ?」
「だったらジャッキー? それもなあ」
「いいよいいよ。そんな悩まなくて」
 歩いているうちに体が温まって、僕はスウェットを脱いで歩いていた。気づいたら、明奈もカーディガンを脱いでいた。くだらない会話が公園までの距離を縮める。歩いてることすら忘れて僕たちは話をした。どれもくだらない話ばかりで楽しかった。国家機密の話やら政治の話やら宗教の話なんて必要ない。僕たちにとってはくだらない話こそ重要だった。できればくだらない話ばかりをして暮らしていたい。
 予定より約10分遅れで公園に到着。人の気配はあまりなさそう。公園内をぐるりと歩く。といっても5分も歩けば、公園の全体像をつかめてしまうほどの広さだ。公園のほとんどは木で占められており、たくさんの木に名前の書いた看板がつけてあるが、どれも同じ木にしか見えなかった。明奈はそんな僕を「信じられない」と言ったが、明奈は明奈で外国映画を見ると主役も脇役もみんな似たような顔で見分けがつかないと言うのだった。
 公園内を流れる小さな川を挟んだ北側に少年サイズの野球場があった。野球ができないというほどではないが、外野の雑草は深い。そこにだた1匹、猫がいてちょこんと座ったままジッとしていた。何かを考えているみたいだった。ほかには誰もいない。入り口には南京錠がしてあって、中には入れなかった。僕は網越しに「サモハン!」と叫ぶ。にもかかわらず、猫は僕を一瞥しただけで何のリアクションも返してはこなかった。
「やっぱユンピョウじゃなきゃダメなのかな」
 僕は大まじめに言った。
「そういう問題じゃないと思うよ」
 明奈は呆れ顔だった。
「チェッ、だから猫は嫌いだよ」
 猫を諦めて、小川を下る。下った先では子どもが寒いのに川に入って遊んでいた。砂場や滑り台で遊んでいる子どももいる。お母さんたちはそれを見守りつつ世間話に興じていた。それは1時間前にも見た風景。どこにでもある風景。僕はその風景に入り込んでみる。でも、ジャングルジムは小さすぎた。なかに入り込めない。滑り台も滑れそうなサイズではなく、シーソーはなかった。そこは僕の場所ではなかった。
 公園のちょうど中心かと思われるところに、つくった理由はわからないが、コンクリートの竪穴住居があり、入り口からガラス越しに中を覗くと、人みたいな猿みたいな人形があって、生活のワン・シーンを演じていた。どうやら食事中らしい。でも、どの人形も無表情なので楽しそうではない。当時の生活の様子や習慣が書かれた看板があったけれど、暗くてはっきり見えなかった。看板を照らすためと思われるボタンは壊れていて役に立たなかった。
 僕たちは歩き疲れて東屋のベンチに座った。明奈は「疲れたねー」と言い、タバコを取り出して火をつけた。吐き出した煙が気持ち良さそうに空気に解けていく。僕は光GENJIの「パラダイス銀河」をハミング。
「実は光GENJI好きだったんじゃないの?」
 しばらく黙って聴いていた明奈が言った。
「そうかもね。てゆうか『しゃかりきコロンブス』って歌詞がね、すごい。完璧イッちゃってるよ。普通の感覚だと出てこないでしょ、このフレーズは」
「歌詞はチャゲアスの飛鳥涼じゃなかったっけ?」
「そうなの? 『ガラスの十代』はそうだったと思うけど」
「なんでそんなこと知ってんの! やっぱ好きだったでしょ、光GENJI」
「たまたま知ってただけだよ。それだけインパクトが強かったってことでしょ、僕らの世代にとって」
「確かにねー。ローラースケートやったし。あー、あの頃は楽しかったなあ」
「楽しかったなあって…。今は楽しくないんかい?」
「楽しくはあるけどさ、何かにすっごい夢中になるなんてこと、ないじゃない? 夢見てる場合じゃないってことが、わかってるわけだから」
「なんか急にシリアスな話になるねえ。てゆうかオレ、明奈に夢中だぜ」
「何バカ言ってんのよ」
「いやいやホントに。何照れてんだよ」
「言ってる自分だって照れてるくせに」
「まあ、バカ言ってなきゃやってらんないよ、この世知辛い世の中!」
 そうだ、世の中は世知辛くてたまらない。小さい頃は大人になればもっと楽しいんだと思っていた。でも、この現実。のんびりとした午後を手に入れることもままならない。必死になってる。おかしい。そんな午後はいつもすぐそこにあるべきなのに。
 風が止まった気がした。誰の声も聞こえなかった。鳥の声さえも。そこに僕と明奈がいただけだ。僕は明奈の手を握り、彼女が吐くタバコの煙の行方を見ていた。どこかで嗅いだことのある花の匂いがした。空は相変わらず青い。いつまでもこんな時間が続けばいいなあと思った。
 でも長くは続かなかった。終わりは突然。
 タバコを吸い終わった次の瞬間、明奈は頭を撃ち抜かれて死んだ。何が起きたのかわからなかった。理解する前に僕も頭を撃ち抜かれた。ピストルの弾が頭を貫通するごくわずかの時間に思った。
明奈が話していた日航機墜落事故の話は本当なのかもしれないと。だから僕たちはこんなめに遭うのだと。
 知らないままでいたかったことは山ほどある。
 最期に見たのは、青い空と飛行機。


 頭を貫通した弾丸は冷たかった。俺は即死した。
 と思ったら生きてた。目の前に穴があった。そこは夢に出て来た公園で、ベンチの真ん中に不自然な穴が開いていたのであります。
 穴をくぐると、そこは牢屋だった。便器の穴から抜け出た。結局元に戻ったのかというとそうではない。そこには壁に横たわる形で人骨が残っていた。その後ろの壁にはこう書いてあった。
「ヤンキース松井はなぜ結婚しないのか気になる」
 それはいつかの俺が書いたもので、鼻血が止まらなくなったときに、気分を紛らわすために血で書いた文字だった。そこは確かに俺がいた牢屋だ。扉が錆びて曲がって壊れている。
 一体どうなっている?
 時空を旅した?
 それとも夢を見ていただけ?
 やっぱり自分は頭がおかしいのか。
 少年がいたはずの牢屋を見た。
 そこには食べかけの干からびた魚肉ソーセージが転がっているだけだった。


 檻から出るのはなぜか名残惜しい気がした。俺のM心がうずいたのか。とにもかくにもこれで外に出ることができる。
 と思ったら、大間違いだった。上の階へと続く、松本城並に急な階段を登り切るとそこにはヤクザの事務所を広くして道場と一体化させたような部屋があった。そして、ゾンビと化した曙っぽいデブが門番のごとく鎮座していたのである。曙っぽいデブの後ろには額が飾ってあり、「Hungry?」と筆文字で書いてあった。曙っぽいデブは「上に行きたいのなら俺を倒してから行きな」とばかりにズズ~ンと腕組みをして仁王立ちしている。「北斗の拳」に登場した漢のなかの漢・山のフドウのごとくデカい。素人には到底倒せそうな雰囲気ではないぞ。しかしだ、倒さねば上に行けぬというのであれば、倒すしか術はないのである。ボブ・サップ戦でガマガエルのごとくリングにうずくまった曙の姿が頭ん中に甦る。そのあとも連戦連敗の曙に、友達の浦野くんは俺でも勝てると豪語した。浦野くんはジミヘンに似ている。なんとなく勝てる気がしてきた。
 「うぉおぉぉぉぉおおお~」と身体ごと曙っぽいデブのどってっ腹に突撃した俺は、さながら特攻隊のようであった。しかしあえなく玉砕。先述の「北斗の拳」でハート様というデブがいたが、ケンシロウの攻撃をぜい肉で吸収してしまうという恐ろしい能力を持っていて、ゾンビと化した曙っぽいデブはまさにハート様のようだった。
 シュッシュッ言いながらすり足で俺に迫ってくる曙っぽいデブ。その重圧に耐えられずジリジリと後ろへ下がる。ジャッキー・チェンのごとくそこらへんにあるものを手当たりしだいに投げつけるが曙っぽいデブの腹はそれを跳ね返し、あるいは飲み込んでしまうのだった。あっという間に部屋の隅に追い詰められた俺。そこには赤黒い血が壁に染み込んでいた。俺は何人目の餌食となるのであろうか。曙っぽいデブはリングでもよく見せた抱きつき攻撃と、全体重を容赦なく使ったボディプレスを俺に見舞った。ワキが臭い。徐々に気が遠くなり、ボブ・マーリィの幻覚を見た。
 ボブ・マーリィがステージの中央で「ワイヨー」と叫ぶ。俺は観客と一緒になって「ワイヨーヨーヨー」とレスポンスする。そしてボブは歌うのだ。「ドント・ギブアップ・ザ・ファイト!」と。
 意識を取り戻し、気を持ち直して、ありったけの力で曙っぽいデブの乳首に噛みつく。腹をつねる。すると曙っぽいデブは「肉が~、肉が~」と言ってごろごろと地面をのたうち回った。壁に木刀が飾ってあるのを見つける。ゾンビは頭を破壊しなければ死なない。壁の木刀を掴むと曙っぽいデブの頭目掛けて木刀を振り下ろした。
「ビギナーズラック!」
 俺は叫んでいた。木刀がずぶずぶと曙っぽいデブの額に入っていき、その感触は意外にやわらかかった。子どもの頃、ボールプールで遊んだことはあるかい? 曙っぽいデブの頭に木刀をぶっ刺したとき、あのずぶずぶとボールプールに身体が飲み込まれていく感覚を思い出したんだ。木刀が深くめり込んでいくにつれ、目からどびゅーと血が吹き出し、鼻の穴からはドス黒い血液とともに膿のような黄色い液体もダラ~と流れ出た。木刀が頭を貫通し、床に当たってその衝撃が両手にびりびりと伝わる。速球に対応できずバットの根元でボールを捕らえたときの衝撃のような。それでも木刀を離さなかった。手がしびれて木刀を抜くことはできなかった。
 俺は自分のなかに潜んだ凶暴性がにわかに信じられなかった。自分自身に怯え、手が震えて、足がガクガクとし、立っているのもままならないほどだった。しかし、立ち止まっているいる暇はない。今の俺には何かが憑いている。それが悪魔だろうと、生きるために、ここから出るために、そいつを利用するまでだ。
 上の階にあがった。そこにはゾンビになっって間もないと見られる長渕剛っぽいプチマッチョがギターを持って待ちうけていた。


 長渕っぽいプチマッチョは俺が登場するなり初期の名曲の「HOLD YOUR LAST CHANCE」を披露してくれた。長渕っぽいプチマッチョの部屋にはステージがあり、簡単にいえばカラオケボックスのようなつくりで、階段はステージ下手側にあった。
 実は中高生のとき、大の長渕ファンだったので、長渕っぽいプチマッチョとともに熱唱した。それに感動してくれたのか、長渕っぽいプチマッチョはファンであれば必ず号泣するキラーチューン「東京青春朝焼物語」を歌い始める。イントロのハモニカが泣ける。俺はすでにその時点で号泣していた。デカい声で歌うが涙で声にならん。曲が終わると思わずひとりで「つよし! つよし! つよし!」とアンコールを要求していた。長渕っぽいプチマッチョも俺の姿にグッときたようで、陽気なナンバー「浦安の黒ちゃん」を歌ってくれた。最後は肩を組んで歌った。いや~、嫁がゾンビになったり、工場の地下に閉じ込められたりしたけど、楽し~な~、生きてて良かったあ~、それにしてもニセモノなのに演奏もうめ~な~などとのんきなことを思った俺。「どうもあざした。感動しやした」と言って上の階へ登ろうとしたら、「それはいかん」と急に長渕っぽいプチマッチョは激怒して、長渕キックを見舞われた。長渕キックとは1980年代後期に一世を風靡し、恐れられたローキックである。高速で繰り出されるこのキックには容赦という二文字は微塵もない。長渕っぽいプチマッチョは、階段から転げ落ちた俺をさらに鬼のように蹴りまくったのであった。俺はウォーズマンと対決した際にキン肉マンが見せた「肉のカーテン」を思い出し必死に防御して長渕キックの嵐に堪えた。そして一瞬の隙をついて立ち上がり、ひざに爆弾を抱えていない頃の若き武藤のようなアクロバティックな動きでステージに置いてあったエレキギターを奪い、「ステイドリ~ム!」と言って襲いかかってきた長渕っぽいプチマッチョに、ギターをバットがわりにして野球のスイングのような一撃をヤツの脇腹にクリーンヒットさせた。俺は勢いあまって転倒。しかし今がチャンスなんだと言い聞かせ、軋む身体にムチを打って立ち上がって、悶える長渕っぽいプチマッチョの元へ。そしてギターを振り上げる。「いい歌をありがとう、ヨーソロー」と言ったあとギターを長渕のど頭に振り下ろすつもりだった。
 だが、そのときである。「とんぼ」のイントロを口ずさむ声がどこからともなく聞こえた。
「ふ~ふ~ふ~ふ~ふ~ふ~、ふふふふふ~」
 それはステージ上手からリリーフカーに乗って参上した元巨人、現オリックスバファローズ清原っぽいマッチョの鼻歌であった。ゾンビなのに筋肉がムキムキで矛盾していると思う。
「長渕さん! 泥水を飲む覚悟で助けにきました」
「キヨ! 俺がどうなろうと生きて生きて生きまくれ~!」と倒れながらも長渕っぽいプチマッチョが叫ぶ。清原を崇拝しているので、そのあまりのそっくりさに腰が抜けた。
「す、すいません。PL時代からのファンです。あ、あ、握手してください」。
 気がついたら右手を出していた俺。しかしそんな健気な少年心は見事に打ち砕かれた。持っていたバットで清原っぽいマッチョにフルスイングで頭を殴られた。ステージから向かい側の壁まですっとんだ。フェンス直撃の2塁だ。いや、当たりが良すぎて単打止まりかな。俺は幻覚を見たのであります。


「ピッチャー井川は8回まで巨人打線をノーヒットに抑える好投を続けて参りましたが、最終回、ノーアウトから清原にヒットを打たれました。
 おっと、ここで清原はお役御免のようですね。ピンチランナーに足のある川中が呼ばれました。ノーアウトとはいえ、1点差。このあと松井、ニ岡と続きますから井川としては心中穏やかじゃないんじゃないですか、掛布さん」
「そうですね~、松井くんをはじめ、あとに続くバッターには一発がありますからね、神経を使う場面ですよ。ただジャイアンツとしてもですね、次は松井君ですからバントはできません。そうなると松井くん以下連打が必要になってくるわけです。井川くん、今は清原くんにうまく打たれましたけれども、決して悪いボールじゃなかったですよ」
「ということは、まだまだ井川には球威が残っていると」
「そうですね、簡単には打たせてくれないと思いますね。連打は難しいですよ」
 スーパードライを飲みながら、そのシーンを見ていた。キッチンから声がする。
「ちょっとパンツ一丁でいないでよ。少しは気を遣ってよね」
「はいはい、『あたしはか弱いレデーなのよ』って言いたいんでしょ」
 マキコはそう言う俺にテレンストレント・ダービーのTシャツと短パンを投げる。机のきゅうりをおもむろにとってかじった。うまい。夏の味っていうのか、土の味っていうのか、今まで食っていたきゅうりとは違う。
「このきゅうり、うまいねえ」
「実家から送ってきたのよ。庭できゅうりとかなすとか育ててるんだって」
 マキコの顔は暑さでテカっていた。
「ねえ、野球なんか見てないでちょっとは手伝ってよ」
 その夜はとても暑く、餃子が焼けるのをじっと待っていた。
「いやぁさあ、俺、こういう場面で強制的に瞬間移動させられて、気がついたらマウンドに立ってるっていうことないかなぁって思うことあるんだよね」
 そんなことを言ったのが間違いだった。
 巨人対阪神、伝統の一戦。
 9回表、1点差。
 打席には球界屈指の強打者・ゴジラ松井が待ち構えている。
 そのとき俺はテレビの前で鼻くそをほじっていた。マキコは俺の戯言に「バッカだねえ」とつくづく呆れた。マキコが俺から離れていったのは、だらしがなくて、こういうバカなことばっかり言っていたからに違いない。「でもさ、案外抑えられたりして」と言ったのが運の尽き、その直後急に頭がグラグラして気を失った。
 意識を取り戻すと甲子園のマウンドにいた。阪神のエース井川慶として。
「おい、イガワ、話聞いてるのかよ」
 キャッチャーの矢野が俺をどついた。
「ああ、聞いてたよ。ヒットはいいから一発だけは気をつけろって言ったんだろ」
「わかってりゃいい」
 矢野はミットで俺の胸を軽く叩いた。気持ちで負けんなよ、というように。それにしても、なんということだ。超満員の甲子園のマウンドにいる。汗が流れる。身体が震えている。怖いんじゃない。武者震いってやつだ。スポーツ雑誌で甲子園の声援はすごくて、球場が揺れるってよく聞くけど、本当なんだな。これは勇気づけられる。よし、相手が松井だろうと怖くはない。悔いのないピッチングをしてやる。そしてマキコにかっこいい姿を見せてやるんだ。ちょっとばかりホームベースが遠く感じるのはビールを飲みすぎたせいか。とにかく矢野のミット目掛けて投げるだけだ。
 うおおおおおおおおおおおっっっっっ!
 全身の筋肉が弾ける。あらゆる細胞が燃える。俺の左腕がうなり、全身全霊が乗り移った剛球が投げ込まれる。
 …あれ、あれれれれ。
 俺って右利きじゃなかったっけ?
 そう思ったときはもう遅かった。
 アナウンサーが叫ぶ。
「井川、女投げぇえ~っ?」
 俺の投げた女の子ボールは、ゴジラのバットに吸い込まれていった。ミシッ! という衝撃音を残して、白球はバックスクリーンに一直線。サヨナラホームラン。ゴジラは悠々とダイヤモンドを一周。ジャイアンツナインが今か今かと殊勲者をホームベース付近で待っている。そのとき、「いがわ~、おんどれふざけとるんか~」、「ぶっ殺してやる」などという怒号とともに大量の阪神ファンが怒り狂ってグラウンドへおりてきた。俺は逃げ場を探したが、四方八方から阪神ファンがなだれ込んでくるので観念した。
 どうにでもしてくれ。
 あー、いやいや、やっぱり、できれば夢であってくれ。
 マキコー、マキコーと俺は泣き叫んでいた。「ちょっと! 飲みすぎだよ!」という声が聞こえて、左頬を叩かれる感触がした。ゆっくりと意識が戻っていく。部屋の天井とマキコの怒った真っ赤な顔が見えた。
「井川打たれました~。松井、劇的な逆転ホームラ~ン」
 テレビが叫んでいてうるさかった。マキコの足にカブトムシがとまっていた。
「悪い夢を見たよ」
 マキコはツンとして、また餃子を作りにキッチンに戻ったのだった。次の朝びっくりしたのは、キヨスクで見たスポーツ新聞の見出し。
「井川女投げ」
 ホームに入ってくる電車の音が甲子園の罵声に聞こえた。


 甲子園登板した翌日は仕事にならなかった。夕方過ぎまで酒が抜けず、上司からはそのことでこっぴどく叱られたのであった。昨晩はそんなに飲んだ記憶はないのだが、やはり甲子園での体験が身体に負担を掛けたというのであろうか。
「だから、本当に甲子園のマウンドに俺、立ったんだってば」
 マキコは神秘的とも言える体験を信じてくれるに違いないと思ったのであるが、悲しいかな、まったく相手にしてくれないのであった。それでまたやけ酒を飲み、次の日も二日酔いで使い物にならず、上司に激怒されてまた酒に溺れた。そんなことが1ヶ月ほど続いて、ついに会社を解雇された。アルコールが切れると手が震えた。立派なアル中である。マキコは初めのうちは文句を言いながらも面倒を見てくれたのであるが、暴れて物を壊したり、彼女に罵声を浴びせるようになったものだから、とうとう離れていってしまった。俺は完全にアルコールで心が蝕まれていたのであった。貯金も底が見え始めていた。
 そんな頃である。テレビで「男はつらいよ 望郷編」がやっていて、俺はワンカップを片手に横になって見ていた。マドンナは長山藍子でちょっとふっくらした感じがマキコに似ていた。寅の妹・さくらがフーテンである寅に説教するシーンがある。
「地道に働かなくちゃダメ。あとであのときマジメに働いていれば良かったって思っても遅いんだよ」
 さくらが厳しい口調で寅を叱るのだ。俺はそのセリフにビビ~ンときた。俺もこんなんじゃいけねえ。地道に働いてマキコに認めてもらって、幸せな家庭を築きたいと心底思った。翌日、近所の工場に飛び込みで面接に行った。だいぶ前だが、たまたま通りかかったとき、求人の看板を見たのを覚えていたからだ。そこは人間を製造する工場だった。ダメ人間の俺がまともな人間をつくるなんておかしな話じゃないか。工場長は履歴書もろくに目を通さず、俺の下半身を中心に身体をベタベタ触ったあと、「お前気に入った。採用!」ということで、その日から早速働くことになったのであった。
 工場での働きぶりは自分で言うのもなんだが、とてもマジメであった。アル中もびっくりするほど簡単に克服した。毎朝6時半に起き、8時半に出社。午後5時半まで働いて帰ったら飯を食って風呂に入って屁をこいて眠る。酒は飲めなかったが労働の心地良い疲労感が俺を満たしていた。順調な生活ぶりだった。
 だが、違和感があった。すべての生活がデジャヴュのような感じがしていた。係長がうまい棒を喉に詰まらせ死にそうになった事件も夢で見たような気がしたし、俺んちのトイレにうんこが詰まって大変なことになった事件もデジャヴュだった。というかこれは予測ができたほどであった。
 で、ある日突然マキコから電話があった。
「わたし、好きな人ができたの。だからもう電話もかけてこないで」
「相手は誰?」と聞くと「武蔵丸」と答えて電話は切れた。ああ、そうだ。確かに俺はマキコにそう言われてフラレたんだった。確かにここ数ヶ月の出来事はすべてデジャヴュだ。それともこれはすべて悪い夢か?
 …思い出した、俺は長渕っぽいプチマッチョゾンビと戦っていて、途中で清原っぽいマッチョゾンビが出てきてぶっ飛ばされたんだった。結構、強烈な一発だったな。俺、死んだかもな。ふいに長渕の歌が口をつく。
「殴られたぁ 痛みわぁ トライへのワンステップ 尽きせぬ自由は がんじがらめの不自由さのなかにある」
 おおそうだ、この痛みは倍にしてはらしてやる。そして工場から脱出して自由になるんだ。俺は目を覚ました。
 まさにそのとき、清原っぽいマッチョがバットを俺の頭目掛けて振り下ろしている最中であった。
「させるかぁー」
 間一髪で清原っぽいマッチョの攻撃をかわした。すると、うまい具合にぞうきんをしぼった水が入ったバケツがあり、「泥水でも食らえ~」となかばヤケクソで投げたら清原っぽいマッチョの右膝に命中した。泥水はシュウシュウと音を立てて、清原っぽいマッチョの膝を溶かしている。たまらず清原っぽいマッチョは転げまわってその痛みに堪えていた。
「キヨ! 大丈夫か!」
 長渕っぽいプチマッチョがそう叫ぶが早いか、清原っぽいマッチョは右膝もろとも大爆発して、俺も長渕っぽいプチマッチョもその勢いでぶっとばされた。飛ばされる途中、清原っぽいマッチョの肉片が俺の目に入ってひどく染みた。その直後、壁に打ちつけられて一瞬気を失った俺。しかしすぐに目を覚ます。
 長渕っぽいプチマッチョは?
 そう思ってあたりを見まわすと煙った部屋の向こうに倒れた長渕っぽいプチマッチョが見えた。意識はわずかながらあるらしく、立ち上がろうとしている。俺は「やるなら今しかねえ~」と吠えて、床に転がっていたエレキギターをつかみ、長渕っぽいプチマッチョに立ち向かっていった。ロックスターがライブのエンディングにやるように、ギターを振り下ろし、長渕っぽいプチマッチョの頭が潰れるまで振り下ろし続けた。長渕っぽいプチマッチョの頭はスイカみたいに真っ赤に粉々に割れた。
 そういえば、いつかの夏、野球部のサークルで海に行ったなあ。スイカ割り楽しかったなあ。あのコの水着姿はきれいだった。俺は水着を忘れて砂浜で彼女に見とれていたんだ。あのコの名前はなんてたっけ?
 そんなことが頭をよぎったが、興奮は収まらず、ステージのドラムセットにダイビングし、バスドラやハイハットをぶん投げて破壊した。
「ロックンローーーーーール」
 拳を突き上げたが歓声は聞こえない。ダイビングしたせいか、長渕キックを食らったせいか、肋骨あたりが痛い。顔にはべっとりと返り血がついている。そして左腕の肘から下がものすんげえ痛い。ポパイの腕みたいに腫れ上がっている。そういえば清原っぽいマッチョに一発目の攻撃を受けたとき、頭を直撃する寸でのところで、防いだ代償だ。まあとにかく、次へ進もう。ステージ横の階段をあがる。身体中が痛くてあがるのも一苦労だ。
 階段を登り切るとそこは真っ白な部屋だった。ひとつの染みもない完璧なホワイト。阪神の助っ人で黒人なのにホワイトという選手がいた。サバを漢字で書くとは魚ヘンにブルーと長嶋茂雄が言ったのはあまりにも有名な話。俺も孫の代まで言い伝えられる名言を残したいものだ。ちょっと今考えてみるか。
 相撲取り
 相撲辞めたら
 ただのデブ
 そんな悠長なことを言ってられる状況じゃなかったんだった。
「ここまで生きて上がってくるとはね。さすが私が愛した男だ」
 工場長が現れた。
 しかし、白がまぶしくてあまりよく見えない。人影はふたつあるようだが…。
「君を殺さなかったのはほかでもない。
 私が君を愛していたからだ。
 一目惚れってやつさ。
 だからどうしても、君にも私を愛して欲しかった。牢屋に閉じ込めてでも愛してほしかったのだよ。
 わかるかね、私の苦悩が。
 しかし、その苦しみが私に知恵を与えてくれたのだ」
 少しずつ目が慣れて工場長の姿が見えるようになってきた。
「もう私は君にはこだわらないよ。君の代わりはいくらでもいるんだからね」
 工場長の言っている意味がわからない。しかし、目が慣れて工場長の隣に立つ男がようやく見えた時、その意味を知った。俺は恐ろしくてひざまずいてしまった。
 ここは人間を製造する工場。
「君は私にとって特別な人間だからね。つくりあげるのに大変苦労したよ」
 俺がもうひとりいる。
 工場長の横に立っている。
 俺が最後に戦う相手は俺自身だった。

 こうじょうちょう と
 おれ が あらわれた
 コマンド?
 たたかう

「私は君を守りたかったが、君自身はそれを期待してなかったらしいね。
 とにかくここから出たいようだ。それならそれで構わない。出ていくがい。
 外に出て、現実に絶望するがいいさ。ふはははははははは」
 工場長は無条件で工場から出してくれるようだ。しかし、腹の虫がおさまらない。憎しみで今にも発狂しそうだ。
 はっ、とうに頭がおかしくなってるっつーのに、まだおかしくなるなんて笑えるぜ。
 工場長を殺る。
 殺さねば気が済まねえ。
 一心不乱に全力疾走で工場長に向かって走り出す。身体がバラバラになりそうなくらいのスピードで走る。左腕が破裂しそうだ。肋骨が痛んで息苦しい。
 むおおおおおおおおおお~。
 乾坤一擲、全身全霊のタックルを工場長に放つ。しかし、あと一歩のところで邪魔が入った。もう一人の俺だ。横から俺の顔に蹴りを入れやがった。吹っ飛ばされながら、白い天井に俺の赤い血が飛んでいくのが、スローモーションで見えた。もう一人の俺は電光石火の速さでマウントポジションをとって容赦なく拳を振り下ろした。一撃一撃が重くてあっという間に顔が腫れていくのがわかった。もう一生自分の顔を鏡で見たくないと思った。
 それだけのダメージを与えながらも、もう一人の俺は攻撃を止めない。
 右、左、右、左、右、左…。
 曙っぽいデブと戦い、長渕っぽいプチマッチョと清原っぽいマッチョを相手にした俺には、もう反撃の余力が残っていなかった。記憶が一撃ごとに飛んで行く。死ぬんだなと感じた。次第に殴られるのが快感になってきた。今まで経験したこともない恍惚感。俺はもう一人の俺に感謝した。


         *


「もうやめろ。もうそのへんにしておけ。こいつは死んでいる」
 工場長が叫んだ。
 それでも俺は、工場長を殺そうとした俺を殴るのをやめなかった。工場長は見かねて、俺と俺を引き離そうと仲裁に入る。その勢いで肘鉄が工場長の顎に入ったが気にせず、地下からやってきた俺をぶん殴り続けた。不思議なことに殴った際の衝撃が拳から脳に伝わって、もう一人の俺の記憶が俺の脳に侵入してくるのだった。
 逆上がりの練習で頭から落ちて血だらけで家に帰ったこと、父親の頭に振り子時計が落ちてきたこと、母親は電話に出ると声のトーンがあがること、銭湯でうんこしたこと、初めてのデートでハンバーガーがひじょうにデカくて彼女の手前どう食べるべきか悩んだこと、初めてのセックスのとき挿入する前に射精してしまったこと、サマーソニックで行なわれたエアギターの大会に飛び入りで出て準優勝したこと、「パイレーツ・オブ・カリビアン」の面白さがイマイチわからないこと、雨の振る日踏み切りで電車が通過するのを待っているときにプロポーズしたこと、マキコにフラレたこと、工場で働いていたこと、妻がゾンビになったこと、猫もゾンビになったこと、テトリスのやりすぎで目を閉じるとブロックが落ちてきたこと、猫も妻も殺したこと、フィッシュマンズの佐藤くんが亡くなってしばらく放心の日々が続いたこと、工場の地下の牢屋に閉じ込められていたこと、曙や長渕や清原っぽいゾンビと戦ったこと、ロスに行ったときにゲイに誘惑されたこと、実は工場長を愛していたこと。
 頭に様々な記憶と感情が侵入してきたせいで、混乱した。俺が殴った俺の分身は俺とはまったく違う過去や記憶や感情を持っていた。俺自身は雑誌をつくる仕事をしていて、あまり売れていないアイドルと交際し半年後に結婚する予定だった。だが俺の分身の記憶が頭ん中に入ってきたせいで、何が正しくて何が間違っているのかわからなくなってしまった。
 俺はなんなんだ。
 誰なんだ。
 工場長の言う通り、俺はこの工場で製造された人間なのか!
 すっかり腰を抜かしてしまっている工場長に、思いっきりパンチを入れて階段をあがった。工場長の叫びが聞こえる。
「工場で詮索はするな!
 これは君のために言っている。
 君は今日製造されたばかりの人間で、世間のことを知らな過ぎる。
 工場の外には決して出るんじゃない。
 現実を知ることになるぞ!」
 その声を無視して階段をあがった。
 階段をあがると数々の処刑マシンが並んでいた。もう一人の俺はここで働いていたようだな。
 彼の記憶が甦る。春子はここで死んだ。俺の記憶ではないのに心が痛んだ。かつてないほどに痛んだ。涙が止まらなかった。たまらなくなって階段を駆け上がった。
 地上1階の工場。ここでは人間が製造されていると聞いている。この階に来るのは初めてだった。それは恐ろしい光景だった。
 生産されているのは人間ではなく、この俺だった。大量の俺だった。
 いや違う。本当の俺じゃない。生産されているのは大人になりきれない俺、好きな人の前では何もしゃべれない俺、エロい俺、気弱い俺、偽善者の俺、他人の目を気にする俺、面倒がりやの俺、できればずっと眠っていたい俺、自殺願望の強い俺、死のうとしてビルの端っこに立ったら下に自分の死体が見えて死ぬのをやめた俺、変態の俺、歌がへたな俺、TSUTAYAで「ワイルドゼロっていう映画探してるんですけど」と店員に聞けない俺、わがままな俺、猫に甘えているでろでろな俺、破壊衝動の強い俺、人見知りな俺、早口で「シャア少佐」を10回連続で言えない俺、鬱な俺、ネガティブな俺、自意識過剰な俺、才能があると思い込んでいる俺、仕切りベタな俺、嫌なことをはっきりと断れない俺、シャイな俺、失踪経験がある俺、ここ一番に弱い俺、仕事ができない俺、残虐な俺、頭のおかしいヤツが犯す凶悪事件を見ていつか自分もこんな事件を起こすんじゃないかと不安に襲われる俺、頭の悪い俺、キチガイな俺、優柔不断な俺、被害妄想が強い俺、そんな俺。
 ここでつくってるのは欠陥商品ばかりじゃねえか。
 君はどの俺が好き?
 てゆうかアンタは誰?
 俺は頭がおかしくなった。
 俺は誰だ。


「だ、だから言ったんだ。余計な詮索はするなって」
 虫の息の工場長が階段をよじ登ってきて、そう言ったんだ。工場長の額はぱっくりと開いていて、炎上した金閣寺のように真っ赤だった。
「日本はゾンビに支配されたんだ。なかには人間と同じ知能を持ったゾンビもいる。我々はほとんどヤツらに殺られてしまった。本当にあっと言う間だったんだ。2、3日で日本が全滅だよ。わたしは首をくくろうかとも考えたのだが、そのときに思いついた。
 ゾンビと取引することを」
 俺は震えが止まらなかった。
 ゾンビが日本を支配?
「つまり、ここでつくっている人間をヤツらに供給することで工場長は取引を?」
「その通りさ。わたしにも家族がいるんでね」。「WHY?
 なんで俺なんだ!
 ゾンビに食われる人間がなんで俺、お、俺なんだよ!
 ほかの人間でもいいじゃないかかかかか」
 俺は自分の言ったことに驚き、失望したんだ。自分じゃない誰かならゾンビに食われていいっていうのか?
「お前の元となったお前は欠陥商品だったんだよ。欠点だらけの人間だった。だからゾンビにくれてやったのさ。太りすぎず痩せすぎずの肉付きもヤツら好みだったしな」
 工場長は突然笑い出した。
「鬼畜生! てめえなんか地獄へ落ちろっ」
「ははは、もう地獄に落ちたような気分さ。それに戒めは受けているよ。わたしは君、いや君たちを愛していたんだ。君がゾンビに食われるなんて…。この上ない苦しさだよ。君にはわかるまい」
 その後、何を思ったか工場長は俺を抱擁しようとした。
「触るな、このホモ野郎! 俺は星野真里みたいな清純派の女の子が好きなんだ。もしくは『報道STATION』のお天気姉さんの市川寛子さんみたいな美人が好みだ。まあ、どーしても男に抱かれなきゃいけないっていうならな、抱かれてもいいのは、亀田興毅の親父か、琴光喜か、レイ・セフォーか、広島カープの前田か、あの『うわ~宝石箱や! 味のIT革命や~』っていうヤツ、グルメリポーターのぽっちゃりした男だよ、名前忘れたやんけ」
「ひ、彦麿呂?」
「彦麿呂だとぉ? 彦麿呂様と言え!」
「ひええええ!」
 工場長が「彦麿呂様です」と言うが早いか、工場長の横っ面をぶん殴った。
「彦麿呂様ぁべぶしっっ」
 工場長の頭は吹っ飛び、従業員用のボーリングのレーンにコロコロと転がって見事にストライクを出した。ひとつの目ン玉は飛び出して、パター練習マットの穴にカランコロンという音を立ててカップイン。タイガーウッズは勝負強いぜ。彼も「どうしても男に抱かれなきゃいけないなら抱かれてもいい男」リストに入れておこう。
 そんなわけで、工場内にあったオイルや灯油やガソリンやウォッカやらを、まだ目覚めていない何千体もの俺自身にかけた。その直後にラッキーストライクを吸って、工場内を眺めた。何かいろいろ思い出したが、それらはすべてプログラミングされた記憶や地下からあがってきた俺の記憶だった。まったく感傷的にならない。
 これから俺は何に出会うのだろう。
 それは良い思い出になるだろうか?
 そんなことを思い、工場の外へ出る。タバコに火をつけて、開け放った窓を目掛けて投げ入れた。
 さようなら、ダメ人間の俺たち。
 これから俺は強い男になるよ。
 ひゅ~ん、どっか~ん。
 って、あれ? なんにもならないがな。
 しゃあないな、もう一回や。
 だなんて悠長に構えてたら、突然工場が爆発して、爆風で飛ばされた。飛ばされている最中に青い空が見えた。
 雲一つない深い青の空。
 青すぎる空。
 きれいだなあ。
 ちゅど~ん。
 のんきな俺は何かにぶつかって気を失ったのであった。


 エンジン音が遠くでなっている。時折、身体が上下に揺れる。誰かが頭を撫でている感覚があるが、その手は冷たい。爆風で飛ばされたことを思い出した。意識はあるが、ずっとずっと奥の方に自分がいる感じ。深いプールの底に俺はいて、もやもやと揺れる水面越しに何人かが談笑しているのだが、俺は何もできずただ水の底でじっとしている。そんな感覚に近い。しばらくして、どうやら車に乗っているようだ、ということを知る。どこへ向かっているのだろう。誰かが「ナガノ」云々と話しているのが聞こえるが、まったくその会話を理解できない。
 その声は男?
 俺の頭を撫でているのは女?
 車には何人乗っている?
 意識が遠い。低くうなるエンジン音が気に障る。しばらくそんな状態で、ふわふわもやもやしたなかに俺はいた。
 だが突然、鼻っ柱を殴られた。血が急激に流れ出るのがわかる。鉄の味が口のなかにたまる。気持ちが悪くなって血を吐き出してしまう。
「何やってんの!」
 女の怒号がはっきりと聞こえた。
「犬が急に飛び出してきたんだ」
 男が女にそう言った。俺は殴られたのではなく、どうやら急ブレーキを踏んだ勢いで、前の座席の背もたれに鼻をぶつけたらしい。運転手は車を道の脇に止めたようだ。ハザードのカッチカッチという音がやけに硬い。「みんなケガはないか?」
 男の質問に俺は答える。
「鼻血が止まんねーつーの」
 一瞬、間があったあと、車内に笑いが起こった。「意識が戻った」とか、「第一声がそれかよ」とか、それぞれが笑っている。隣にいる女は腹を抱えて笑っていた。その間も鼻血が、ダムが決壊したかのごとく流れ出しているっていうのに。後ろの座席から手が伸びてきて、それは俺の鼻を指で挟んで止血してくれた。その手は恐ろしく毛深い手だった。
 血が止まって、意識が少しはっきりしてくる。車に乗っているのは運転手の男、助手席の痩せた男、俺の隣にいる女、そして俺の後ろの毛深い男。4人、俺を含めて5人が車に乗っている。車はワゴンだ。
「どう? わかる?」といって女が俺の目の前で手を振っている。
「まだ白目むいてるぜ」
 助手席の男が俺の顔を覗き込んで言った。息がバナナ臭い。
「私、カナ。私たちは病院に入院していた仲間なの。逃げてるの。わかるでしょ、ヤツらから逃げてるのよ」
 ヤツら? ああ、ゾンビのことか。工場長もこの人たちも悪い冗談が好きだなあ。日本がゾンビに乗っ取られるなんて、そんなアホなことあるわけないじゃん。遠い意識の向こうに見えた工場での出来事を悪い夢だったんだと自分に言い聞かせる。
「君たちはゾンビ見たわけ?」
 その言葉に車内が呆気にとられる。こいつは何を言っているんだという空気。運転手の男が静寂を破る。
「見るも何も…。病院の人たちは俺ら以外殺られた。テレビでもそこらじゅうの惨劇を映し出していたよ。お前は見てないのか?」
 その質問を無視して運転手の男に聞いた。
「病院にいたってアンタたち、こんなとこいていいのかよ。身体悪いんだろ」
 女が答える。「…私たち精神病院の患者なの。だから身体の方は元気なのよ」。
 俺はおかしくて笑いが止まらなかった。やっぱりゾンビの話は何かの冗談だ、ははは。せっかく止まった鼻血もまた流れ始めた。シートが血で汚れていく。運転手の男はそんな俺に怒ったのか、車を急発進させた。誰もが黙り込んだ。ただ女だけが手を握ってくれた。そうでもしていないと不安で仕方ないというように。
 女の手は冷たい。遠のいたりはっきりしたりする意識のなかで、その冷たさだけをしっかり感じていた。


 どれくらいたってからだろう。ようやく意識が戻り、誰にともなくこう聞いた。
「どこへ向かっているんだ?」
 いつの間にか車は高速道路を走っている。返事を待ったが誰も答えないので、仕方なく窓の外を眺める。橋の上から見えた田んぼに映る夕焼けのオレンジ色がきれいだった。学校帰りの子どもらが赤いランドセルを背負って歩いているのも見えたが、それは幻で、口が開いた赤いランドセルがあぜ道に落ちていた。車は時速100キロくらいのスピードで走っている。沿道に横転している車も見かけた。窓ガラスが粉々にくだけ、そこから血だらけの腕が出ていた。車のなかの人々はそれを見ても何も言わない。何も感じていないみたいだ。もう見慣れたとでもいうような表情をしている。
 それとも俺だけに見えていた?
「なあ、あんた、なんであんなとこで寝っ転がっていたんだ」
 運転手の男がようやく口を聞いた。
「工場が爆発した勢いで吹っ飛ばされて、何かに叩きつけられた。そこからは覚えていない。だから逆に聞きたいんだけど、俺をどこで拾ってくれたんだ?」
「交差点の真んなかだよ。いくら死んでるからといって車が通るたびにひかれたんじゃ哀れだと思ってね、どかそうとしたらパッと目を見開いて『千代の富士勝った?』って聞くからびっくりしたよ。死んだ親父が家に帰ってくるとよく言ってたセリフでね。それでこれも何かの縁だと思って、車に乗せることにしたのさ」
「…そりゃあ、どうも。俺、ホセ・トレンティーノって言います」
 みんなきょとんとした顔をしている。「思いっきり日本人の顔なんですけど」と助手席の男が笑った。「よく言われますよ」と言うと皆一斉に笑った。そのあと次々と皆が自己紹介していく。運転手は藤岡弘であの有名人と同性同名だ。さすがに「、」はつかない。年は30後半。
 助手席の男はGと呼ばれている。Gといってもゴルゴとは似ても似つかぬ華奢な男で、藤岡がいうには看護師に自慰行為を見られて以来、そう呼ばれているという。40歳くらいだろうか。
「わたしの名前は?」と女はいたずらっぽい表情で聞いた。俺はうろ覚えだったが「カナちゃん」と答えると彼女は少女のように笑った。25歳と彼女は言ったが、もっと年下に見えた。
 俺の後ろの男はインディアンみたいな顔をしていて、威厳がある雰囲気を持っているから酋長と呼ばれている。冷蔵庫も片手で軽く持ち上げてしまいそうな大男。あまり多くを語らない。年齢は不詳だ。
 そして、もうひとり男がいた。酋長の横で体育座りして小さくなっている。顔は青白く震えている。少年のようにも見えるが20歳前後といったところか。
「そいつはハネケ。名字が羽毛って書いてハネケっていうんだ。珍しいだろう」
 藤岡が彼のことを紹介した。ハネケはすべてに怯えている様子で明らかに精神異常者だ。ほかの人間は精神病院に入っているようには見えないが、まあいずれ、お互いのことを深く話すことが来るだろう。
「で、最初の質問に答えてほしいんだけど…」
 藤岡が答える。
「ああ、行き先ね。ゼンコウジ。長野県の寺だよ。そこに生き残った自衛団がいるんだ。かなりの武装もしているらしい。ラジオで言っていたんだよ。まあ、昨日からそのラジオも聴けなくなってしまったんだが」
 そのあと皆黙り込んでしまった。
 そこに行けば本当に自衛団がいるのか?  
 もうヤツらに殺られているんじゃないか?
 てゆうか、ゾンビなんていないんだろ?
 そう言おうと思ったがやめた。可笑しいくらいにみんなシリアスだ。俺はまだ現実が飲み込めていない(現実を思い知らされるのはもう少しあとのことだ)。
 夕陽が沈むのは異様に早い。あっという間にあたりは暗くなった。それでも車は走る。頭の中でキング・クリムゾン「21世紀の精神異常者」がグルグルまわり続けていた。ちょうど10回目のリピートが始まったとき、Gが言った。
「下にある、あのホームセンター、行ってみない? ガソリン・スタンドも隣にあるし」
 ひじょうに嫌な予感がした。


 ゾンビ映画の重鎮ジョージ・A・ロメロ監督の「ドーン・オブ・ザ・デッド」はショッピング・モールを舞台にゾンビが暴れまわるという作品であって、この作品の素晴らしいところはただキモい、グロいだけではなく、信頼と裏切りの間で揺れる人間模様や、元は人間であったゾンビを、おもしろ半分で人が殺していくという人間の残酷さを描いている点などが、ほかのゾンビ映画と違うところであり、乱暴な言い方をすれば、ある一部の作品を除けばジョージ・A・ロメロ作品以外のゾンビ映画はただのクソホラー映画でしかないということを俺は皆に力説し、そしてついでに言えばボブ・マーリィ以外はレゲエじゃないと暴言まで吐いたのだが、「何が言いたいのかわからない」ということで、結局ホームセンターに我々は行くことになってしまった。
 あたりは薄暗くなっており、ゾンビが出てくるシチュエーションとしては絶好である。ホームセンターには俺と藤岡、Gが入り、ほかの3人は車にガソリンを入れて待機ということになった。
 入口はすでに何者かによって破壊されて、店内もいくらか荒されていた。その光景を見て少しずつ日本がゾンビに支配されていることを理解し始める。気を紛らわすため、ガトームソンが06年の交流戦で初めてノーヒットノーランを達成したときの試合を観戦したことをふたりに話したが、彼らはまったく関心を示さなかった。
 藤岡が電気系統の回線盤をいじって明かりをつける。光は少し緑色ががっていて薄気味悪い。藤岡を先頭にゆっくり一歩ずつ店内の奥に入っていく。かなり慎重に店内を見回り、どうやらゾンビはいないようなので、各自必要なものをショッピングカートに入れていく。
 藤岡は食糧、Gはガソリンタンクを探してガソリンをそれに入れて積む役目。俺は武器になりそうなものを探す。ここがアメリカなら銃も売っているのかもしれないが、やはりそんなものはない。しかし驚くべきことに日本刀が数本展示してあった。「日本の名刀展」という垂れ幕がかかっている。俺はショーケースの200万円の値札がついた日本刀をカートに入れる。そのほかにオノ、金属バット、モリ、サバイバルナイフ、そしてチェーンソーを選んだ。店頭の食品コーナーにはまともなものが残っていなかったようで、藤岡が「ストックルームに行ってくる」と言う大きな声が聞こえた。
 俺は引き続き、雨具やウインドブレイカー、Tシャツや下着などの衣類を積め込み、一旦車へ戻った。カナが何か暇つぶしになるものも欲しいというので、オセロとトランプを調達してくることを約束した。ちょうどGがガソリンタンクにガソリンを入れたところだったので、早速チェーンソーの燃料タンクに入れて、起動させた。意外と軽くて両腕から伝わる振動が心地よい。カナは耳障りが悪いと言って両耳をふさいだ。俺は「ゾンビでも出ないかなあ」と軽口を叩き、電源を切ったチェーンソーを持って店内に戻ったのであった。そんなことを言った自分を少しも悲しいとは思わないで。
 Gが藤岡を心配していた。
「ちょっと遅すぎやしねえか」
「もしかしたら、食糧はなくなっているのかもしれないな」
 そんなことを言いながら、俺とGはストックルームへと進む。藤岡の名を呼ぶが返事はない。店内は静寂に包まれ不気味だった。その不気味さに怯えて、俺とGが藤岡を呼ぶ声もいささか弱々しい。すると、陰からぬっと人影が現れる。Gは思わず尻餅をついた。人影は藤岡だった。彼は倒れたGを見て大笑い。実は俺も心臓が止まるかと思うほどびっくりしたが、無理やり笑った。
「あまり食べるものはないが、ドリンクは結構あるよ。コーラみたいなものばかりだけどな、ははは」
 そのとき、藤岡の後ろに人影が見えた。目を疑ったが、それはゾンビだった。まぎれもないゾンビだ。俺は驚きのあまり「志村、後ろ~!」と叫んでいた。ゾンビは「ドリフかよっ」とツッコミつつ藤岡に襲い掛かる。いや、ゾンビのツッコミは空耳だろう。藤岡は必死にゾンビを振りほどこうとする。後ろから首元を今にも噛まれそうだ。俺はチェーンソーのスターターを引いて起動させようとするが、全然かからない。ゾンビは思ったよりも力が強いらしく、体格で勝る藤岡が苦戦している。やはり、チェーンソーはかからない。Gはあわわあわわしている。
 うおりゃぁぁぁぁー。
 藤岡は奇声をあげてゾンビを背負い投げ。そして間髪入れずゾンビの頭を踏み潰した。赤とも黒とも言えない血がべちゃという鈍い音を発して床を汚す。ゴキブリを叩き潰したときのような不快感が背筋を走った。
「まだいるぞ!」
 藤岡が叫ぶ。俺たちは急いでストックルームを出る。が、Gが慌てて転倒した。両脇にカー用品が並ぶ細い通路で。ダッシュしてきた小太りのゾンビがGに覆い被さる。Gは必死に蹴りでゾンビを引き離そうとするがしぶとい。藤岡が頭に蹴りを入れて吹っ飛んだもののまだ生きている。そこへもう一匹の女ゾンビがGに襲いかかる。Gの股間を食いちぎろうと飛びかかる。心なしかGの口元が笑っているように見えた。さすが「自慰」と呼ばれるだけある。俺はもう1度チェーンソーのスターターをひっぱった。
 かかれ!
 エンジン音が店内いっぱいに響く。回転数をフルスロットルにしてGの股間を狙う女ゾンビの頭にチェーンソーを突き刺した。返り血でGの顔が紅に染まる。そして藤岡に蹴られて、ようやくふらふらと立ち上がった小太りのゾンビの首を右から左へチェーンソーを振って斬り落とした。床に落ちた首は目がぐるぐるとまわっていたが、最後に俺を見て息耐えた。首を切られた胴体はなおも藤岡を襲おうとしたが、すぐにフセインの銅像のように力なく倒れた。
「まだヤツらがいるかもしれない。早くここを出よう」
 藤岡がそう言って、食糧や飲み物が入ったショッピングカートを押して走り出す。Gは怯えて立ち上がれず、俺が手を引っ張って立ち上がらせた。車に戻ると血だらけのGを見てカナが悲鳴をあげた。
「ヤツらが出たんだ。でも食糧は確保した。さあ、行くぞ」
 藤岡はリーダータイプだ。頼りになる。リーダーはこんなときでもジョークを忘れない。股間を押さえているGを見て茶化す。
「あの女ゾンビに襲われておっ勃ったのかよ。どうせならしゃぶってもらえばよかったな、がはは」
 俺と酋長は笑う。カナも照れ笑い。ハネケだけは相変わらず隅っこで震えていた。Gはタオルで返り血を拭き取ったが、からかわれたのがよほど恥ずかしかったのか、血を拭いた後も顔が真っ赤だった。車が走り出す。
 しばらくしてから、カナに頼まれたオセロとトランプを忘れたことを思い出した。あたりはすっかり夜だった。


 藤岡が調達してきた食糧に大した物はなかった。ほとんどがポテチと炭酸飲料。それでも誰一人文句ひとつ言わなかった。
「ペリエでパキシルとか飲むのっておしゃれぢゃない?」
 カナはそう言いながら口にクスリを放り込んだ。それぞれが思い思いの飲み物を手に取り、ポテチは誰も食べなかった。俺はさっきの惨劇を思い出して、何も口にすることはできなかった。興奮して目が冴えている。だが、Gもカナも酋長も眠ってしまった。ハネケは眠っているように見えた。
「ホセも眠れるときに眠っておけよ」
「藤岡さん、実は俺、さっきのことでまだ心臓がバクバクいってるんです。眠るなんてとんでもない」
「ホセもすぐに慣れるさ。要は慣れだよ、慣れ。それにみんなクスリ飲んでるから、副作用で眠くなるんだ」
「藤岡さんはどんな病気?」
「ははは、単刀直入に聞くね。俺は眠れない病気。生きてるのが不思議なくらい寝てない」
 なんて返事したらいいのかわからない。沈黙が続く。
「こんな話したらひくかもしれないんですけど、俺も頭おかしいっすよ。
 俺、人間製造工場でつくられた人間らしいんです。だから昔の恋人のことや、楽しかった記憶を思い出したりすることもあるけど、それって本当に自分が経験したことなのかなって悩んじゃって、わけわかんなくなって、んで、俺って俺なのか? みたいなデスループにハマっちゃうですよ」
 車は静かで、木々豊かな田舎道をゆっくり走っている。ライトの先にセンターラインだけが見える。
「あー、そりゃあ、君もかなり重症やね。カナに相談するといいよ。そいつは精神科の先生だったんだ。まあ、今は患者でもあるんだけどな。俺はそういうこと専門外だからわかんねえけど、過去は読んで字のごとく過ぎ去ったことだな。だから極端に言えばもう意味のないものだ。こだわるのはよそうよ。それに悩んだり迷いながら生きるのが人生ってえやつよ」
 何かの映画のセリフかよと、藤岡のクサい言葉をからかう。
「多分、何かの映画のセリフだったかな。ついでに続けるとだな、結局今この瞬間が大事なのよ。今が積み重なって未来になるわけ。どぅー・ゆー・あんだすたん? それを自覚さえしていれば、悪い未来は待ってないと思うよ」
 いえす、あい、どぅー。
 いい未来が待っているといい。殺し合いなんかやめて、ゾンビと共存して、人間は人間らしく、ゾンビはゾンビらしく、俺は俺らしく生きていけたら素晴らしい。でも、今を地道に積み重ねていけるほど俺は強くない。
 そのあと藤岡は話を続けたが、俺は浅い眠りについてしまった。夢でなぜか中島みゆきのコンサートで会場整理係のバイトをやっていて、結構仲のいい学校の友達を客席に見かけた。彼の隣には女の子がおり、彼女は誰とでも寝る女という評判のコ。友達はかなり真面目なタイプの男だったから、彼女のことを軽蔑するような発言をしていたことがある。客席の彼が俺の存在に気づいたとき、とてもバツの悪そうな顔をして、しまいには大きなマスクを取り出して顔を隠してしまった。マスクは×印が書いてあるマスクだった。それでバイトは無事に何事もなく終わったのだが、帰りに彼女が待ち伏せしていてホテルに行くことになった。夢のなかの俺は、そういうところは初めてだったんで緊張していたのだが、彼女は「紅茶でもどう?」なんつってすごく丁寧に紅茶を入れてくれた。昭和初期の洋館のような一室で、ステンドグラスがところどころに散りばめられたモダンな部屋だった。テレビをつけるといつも見ているクイズ番組がやっている。急に現実に引き戻されたような気がした。
「エッチなビデオでも見てたんでしょう」
 彼女が浴室から出てきて言った。その雰囲気はまさに峰富士子だった。俺は急いでシャワーを浴びる。ろくに身体も拭かずに戻ると、彼女はバスローブ姿で眠っていた。枕がなぜかイエス・ノー枕で、彼女は×印を抱きしめて眠っていたのだった。俺は裸のままバスタオルを床に敷いて横になった。夢では奇妙な行動をよくするものだ。暑いので冷蔵庫の扉を開けると、なかに「シティコネクション」のカセットがささったファミコンが冷されていたが、あまり気にならなかった。
 そして、ウトウトしはじめて、夢のなかで夢を見た。
 俺は茶トラの猫で、浅草の団子家に帰ると「お兄ちゃんっ!」と妹の猫・さくらが迎えてくれた。おいちゃん猫も、おばちゃん猫も暖かく俺を迎えてくれたのだが、タコ社長がやってきて「いつもみんな言ってる通り、寅のヤツがいねえと平和だなあ」と俺がいることを知らずに店に入ってきた。タコ社長は人間の姿のままだった。タコは俺を見るや否やあたふたして取り繕ろうとしたがもう遅い。「それを言っちゃあ、おしめえよ」と俺は吐き捨て、店を出ようとした。
「お兄ちゃん!」
 さくらが俺を止める。俺は言ってやった。「世間からは白い目で見られる。実家に帰れば『寅ちゃんおかえり』なんて迎えてくれるが、実はみんなから迷惑がられている。なあ、そうだろ。さくら、止めてくれるな。あばよ」
 外はいつの間にか雨がぽつぽつ降っていた。さくらが俺を呼ぶ声がする。おばちゃんはいつものごとく、すすり泣いてら。それでも俺は行く。
 そこが渡世人のつれえところよ。
 そんなふうにキザに店を出たはいいが、柴又駅に着く前に車に轢かれてしまった。全身の血が流れ出て、寒気を感じたとき、目が覚めた。
 ホテルの床で俺は眠っていた。冷蔵庫からの冷風が厳しい。冷蔵庫には噛み千切られたペニスが入っていた。びっくりして起き上がると、ベッドでGがバスローブ姿で泣いていた。股間の部分があっと言う間に赤くなっていく。
「どうしたんだ?」
 その声は震えていた。すると、Gは「噛まれたんだよ、あの女ゾンビに!」と叫んで飛びかかってくる。咄嗟に前蹴りが出た。
 誰とでも寝る女の悲鳴が聞こえる。
 車が蛇行運転している。
 車?
 よく状況がわからない。
 フロンドガラスの助手席がステンドグラスになっている。Gが顔を押さえて痛がっていた。さっきの俺の蹴りが入ったんだ。Gの顔にステンドグラスで跳ね返った光が当たり、緑や青や赤や黄色に光っている。運転手の藤岡がGに殴りかかる。彼の首からはゾンビに食いちぎられたように血が吹き出していた。
 車がスピンする。スローモーションで回転しながら、脇の大木に突っ込んでいく。窓の外をさっき夢のなかで見たファミコンが飛んでいくのを見た。カセットはささっていなかったけど、Bボタンが潰れていたからあのファミコンに間違いない。そして、そのあと皮の被ったペニスが飛んでいった。冷蔵庫に入っていたヤツ。
 助手席のGはゾンビになっていた。藤岡がスピンしている最中にもかかわらず、Gの顔面を殴りまくっている。Gの体液が飛び散る。カナが「ぶつかる!」と叫んだ瞬間、車は助手席側から大木に激突した。衝撃でハネケが飛んできた。天井にぶつかって落ちた。俺もカナも酋長もしばらく何が起こったのかわからなくなっていた。そんななか、藤岡はGを殴り続けて、くたばると車から引きずり降ろして、大木の横に投げ捨てた。彼は泣いていた。俺たちはただそれを見ていた。
 藤岡が再びエンジンをかける。当然かからないが、藤岡がハンドルを叩くと嘘みたいにエンジンがかかったのだった。「最新型の車じゃこうはいかねえや」と言い、俺に運転するよう頼んだ。
「自分で運転するほうが楽なんじゃないんですか?」
「俺は行けねえ、見ればわかるだろ?」
 藤岡の首から血が出ていた。Gに噛まれたんだ。
「でも…」と俺がためらっていると、「ルールなんだ」と酋長が低く、悲しそうな声で言った。
 俺は藤岡と入れ替わりで運転席に乗り込み、アクセルを踏む。道路に突っ立った藤岡の姿は、闇に紛れてすぐに見えなくなった。
「藤岡さん、ゾンビになったら眠れるかな」と誰に言うでもなく呟くと、「眠れないわよ」とカナがむせび泣いた。


 Gのことはよく知らない。でも、ヤツが死んで悲しいのは、なぜだろう。シンガーソングライターの田辺マモルは、男はみんなプレイボーイになりたいんだ、と歌った。そう、男はみんなエロい。個人差はあるけれど、少なからず下心があり、女とアレするために、「メンズ・ノンノ」とか「レオン」とか読み、小奇麗な格好をし、大金を使い、こまめにメールの返事をし、マイミクのお気に入りの女の子の日記にしょっちゅうレスを書き、デートプランを妄想し、ワインの銘柄を覚え、腹筋を鍛え、下手な嘘をつき、車中ラブソングの練習をし、お世辞を言ったり、おしゃれとされるアーティストのCDを買ってみたり、ステキなカフェやバーに足を運び、口説き文句を考えたり、見栄をはってみたり、口からでまかせを言ったり、「愛してる」を無駄使いしたりしているのである。そんな姿は姑息だ。ときに滑稽だ。
 だが、Gの性欲には姑息さがなく、丸裸で正直で無邪気なものだったんだと思う。Gに関するエピソードを、俺はかわいらしく感じた。病院へは自分から入ったのだという。自分の性欲は異常だから、罪を犯してしまうかもしれないと言って入院したそうだ。女からしたら得体の知れない、おぞましい存在だったかもしれない。でも、俺からしたら、エロ本をドキドキしながらコンビニで買う中学生みたいでかわいらしい男だった。だから、親近感を持ったんだろう。Gが死んでしまったことは悲しい。もっとGとバカな話をしたかった。
 今、助手席には誰も座っていない。Gの血が座席に残っている。俺はGや藤岡のことをカナや酋長やハネケに聞いたり話したりしたかった。でも、みんな話したくないようだった。悲しんでいた。あんなに大きな事故だったのに、自分たちは小さな怪我もせず、そのかわりGや藤岡に全員分の不運が振りかかったようで、罪悪感すら感じているようだった。
 俺もそうだ。せめて藤岡をゾンビのままにしておくんじゃなくて、心を鬼にして彼を殺し、永遠の眠りにつかせるべきではなかったか。そんなふうに考えたりもした。
 車は不規則に右に左へ孤を描く道を走っている。長い登り坂にエンジンは悲鳴をあげる。さっきの事故でやはりどこかしらに故障があるのか、いまいちスピードが出ない。でも、のんびり行けばいい。悲しむ時間はたっぷりある。
 藤岡のもみあげは立派だった。Gの歯はすきっ歯だった。藤岡とGはジャイアンとスネ夫みたいだった。藤岡は男気があった。Gは頼りなかった。藤岡は面食いだった。Gは変態だった。藤岡もGもいいヤツだった。精神病だったけれど、世渡り上手で器用な人たちよりも人間らしくて好きだった。たったわずかな時間を共にしただけなのに、こんなに泣けるのはどうしてだ。
「それはだな、濃密な命のやりとりをしたからだ」と藤岡が言った。
「ああ、あのホームセンターでの出来事はヤバかった」
 って、え?
 右を見るとゾンビになった藤岡が車と並走している。メーターは時速40キロをさしていた。藤岡は左手で裏拳を炸裂させ、運転席の窓ガラスを破壊。そしてそこから車に飛び乗ろうとしてきた。俺は右エルボーを額に食らわせて、藤岡を車から引き離す。サイドミラーにゴロゴロと転がっていく藤岡が見えた。迂闊にもスピードをゆるめてその様子を眺めてしまったのが間違い。藤岡は何事もなかったかのように立ち上がって、全力疾走で追いかけてくる。酋長が「ゾンビ、走れないハズなのに」とつぶやく。
「最近のゾンビは走るんだよ。たとえば『28日間』っていうゾンビ映画があるんだけど、ゾンビがそりゃあすげえスピードで追っかけてくるんだな。でも、俺がゾンビ映画撮るなら、やっぱりゾンビには走らせたくないな。ノロノロゾロゾロ歩いてる方が怖いと思うんだよ」
 だなんて戯言をぬかしていたら、藤岡がカエルみたいに車の後ろに飛びついた。アクセルを緩め、車を蛇行させて振り落とそうと試みるが彼はしがみついたまま。一体、どうなっているんだ。思い切ってアクセルをいっぱいに踏んだ。運良く先の道は登り坂ながらもほぼ直線だ。
「急ブレーキを踏むから、みんな何かにつかまってくれ!」
 その直後、俺は力いっぱいブレーキを踏んだ。衝撃で藤岡が車から振り落とされる。車はスピンしたが180度回って止まった。ライトの先に倒れている藤岡が照らされた。まだ生きている。カナがそれを見て叫んだ。
「ヤッチマイナー!」
 俺はアクセルを踏んで、立ち上がろうとした藤岡を轢き殺した。フロントガラスが血で染まる。ウォッシャー液を出しながらワイパーを動かしたが、それはなかなか消えなかった。
 車をUターンさせて、目的地へと進行方向を戻す。藤岡の下半身がガードレールをまたぐようにして残されていた。それを見てカナは「なんで藤岡さんを殺したのよ」と俺を責めた。運転席の背もたれを蹴ったり殴ったりしているうちに興奮してきて俺の頭を叩くので酋長がカナを抑えた。彼女は情緒不安定になっていた。ハネケは相変わらず体育座りで最後部座席に座り込んでいる。
 しばらくして、カナは急に俺に謝りだし、かと思ったらまたヒステリックになって俺だけでなく酋長やハネケまでも罵った。最後は泣きわめいて、みんなに謝って謝って泣き疲れて眠ってしまった。「これで藤岡さんもよく眠れるわ」という彼女の寝言を俺は聞いた。
 俺は「機動戦士ガンダム」のエンディングテーマを歌った。すると酋長も歌い始める。

 おとこはなみだを
 みせぬもの、みせぬもの、
 ただあしたへと、あしたへと、
 えいえんにぃ~。

 俺はまだ1人前の男じゃないから涙を見せてしまう。
 藤岡さんが言ったように今を積み重ねることの大切さを知って、明日へと繋げていきます。
 藤岡、G、ありがとうさようなら。
 目的地はもう間近だ。


 暗闇のなかを走る車のなかで、誰かの携帯電話が鳴る。Regurgitator「I Sucked a Lot of Cock to Get Where I Am」の着うた。「G、ケータイ鳴っているぞ」と言いそうになったが奴はもういないんだった。もちろん藤岡でもない。カナは寝ているし、酋長は首を振った。ハネケではなさそうだし。
 じゃあ、俺?
 てゆうか、今、ケータイなんか繋がるのか?
 と思ったら、俺の左足の裏がブルブル震えている。いや、ずっとなんかおかしいなーと思っていたのだが、ケータイが足の裏に入っていたのか。
 車のスピードを緩め、靴を脱いでやけに分厚いを取り出す。こんなのに気づかなかったなんて、ダンボールが入った中華まんを食って気がつかない奴よりアホだ。
 んで、表示画面を見ると、ストレッチからのメールだった。ストレッチは昔の彼女。
「大変なことになっているけど大丈夫?」
 文面はそれだけだった。酋長が最後部の席からカナの隣の席へ、大きい身体を無理やり小さくして移動してきて誰からのメールか聞いた。
「友達から安否を心配するメールだよ」
 酋長は「ソレダケ?」と聞き、俺が黙ってうなずくと残念そうに深く息を吐いた。こんな状況でケータイが鳴る。何かの朗報と思ったのかもしれない。なんだか申し訳ない気になった。
「ソレデ?」と酋長が続ける。
「俺は生きてるかって心配してた」
「それはすぐ返事しなくちゃダメダ」
「運転中してるから、酋長が代わりにメールしてよ」
 彼はメールが苦手のようだったが、一生懸命俺の言う通りメールを打ってくれた。
「おれいきてる」
 たったそれだけの文面。俺にとってまだ未練のある女だったから、それを彼女に悟られたくなくて、わざと簡潔な素っ気無い文面にした。
 そんな気持ちを知ってか知らずか「ストレッチって誰?」と酋長が聞く。「高校のときの女友達だよ」と言うと、寝ていたはずのカナが食いついてきた。
「友達じゃなくて彼女だったんでしょ? まだ好きなの? ねえ、そうなんでしょう? 言っちゃいなよ。忘れられないんだって」
 俺はこの女の性格がつかめない。最初は強い自立した女というより、控えめな女の子っぽい女かという印象だったが、怒ったと思ったら謝って、泣いたと思ったら笑って、寝ていたと思ったら大阪のおばはんみたいに食いついてきて、どれが本当の彼女なのか知れない。
「まあ、未練はあるかなあ」
「わかるな、わかるな、わたし、すごいわかるな。子どもの頃、テレビで主人公の女性が前の彼氏のことが忘れられなくて、でも幸せな結婚生活を送っているんだけれども、やっぱり時折彼のことを思い出したりして、ある日同窓会のハガキが来たから、彼に会えるっていう気持ちを心に秘めて会場に行くんだけれど、結局彼は来なかったっていう2時間ドラマを見たのね。
 でね、お母さんに忘れられない男の人っているって聞いたら、『そりゃあいるわよ、愛しているっていうのとは違うけどね』って言ったんだ。お父さんとお母さんの仲が良かったから、ショックだったんだけど、大人になって、あのときのお母さんの気持ちがわかるようになったんだな。
 ホセはさっき未練って言ったけど、その彼女のことはまだ好きなの?」
 ますますカナのことがよくわからなくなる。何が言いたいんだ。
「君のお母さんと一緒だよ。好きじゃない。でも、なんか引きずってる。会いたいなって思うこともあるよ。だけど、俺には彼女がいるし、彼女は結婚している」
 でも、それはスキってことじゃないか、と酋長が口を挟むがカナはそれを無視する。「こんなこと言ったら不謹慎だけど、あなたの彼女も生きているかわからないし、そのストレッチちゃんの旦那さんも生きているか、わからないじゃない」
だから? それで? 俺はそう言いたかったが、言えなかった。
「うまく言えないけど、とにかく彼女とは終わってるんだ。未練っていってもいい思い出の方を、たまに思い出す程度のことだよ」
カナは俺の話も無視する。
「メールしちゃいなよ。『もし1年後も生きていたら、会ってくれ』って。彼女も心細いからメール打ってきたのよ。鉄は熱いうちに叩けっていうじゃない?」
 言っている意味がわからない。そんなメール打ちたくもない。なのに彼女は勝手に俺のケータイを横取りして、ストレッチにメールを打った。10分後返事が返ってきた。
「会って何になるの? そんなの今更だよ。勘違いしないで」
 カナはもう眠っていた。わけわからん。カナもカナなら、ストレッチもストレッチだ。そんな言い方しなくてもいいじゃないか。酋長はストレッチからのメールを見ると、無言で俺に返した。なんか失恋したような気分だ。
 そんな茶番劇を経て、やっと目的地のナガノに着いた。あたりはまだ暗い。時間は午前3時くらいだろうか。俺たちはゼンコウジへと繋がるチュウオー・ストリートを車で進む。ゆるやかな坂をあがる。ナガノ駅の周辺もグルグルまわってみたのであるが、人気はもちろん、ゾンビがいそうな雰囲気がない。生き物が存在する気配がまったくしなくて奇妙だった。街が息をしていない。なんていうか、ガラスケースのなかにつくられた模型の街のように無機質。ここに自衛団がいるなんて思えない。ハネケはうなり声をあげて不安がり、カナは死んだようにまだ眠っていた。酋長が祭囃子にあわせて、しゃもじを持った人々がくるくるまわりながら、「そーれ」と言って踊っていると言ったが、そんな集団はどこにもいない。
「酋長、疲れてるんじゃないか。そんなヤツらいないよ」
「そうか。俺、ゲンカクをよく見る。だから病院にいた」
「そうなんだ。でもさ、今まではどうか知らないけど、今見たのは疲れてるせいだよ」
 そう言うと酋長は俺を子どもみたいな扱いをして頭を撫でた。悪い気はしなかった。結局、ゼンコウジ目前まで行っても街は異様な雰囲気のままだった。車をゼンコウジ仁王門前に停める。本堂にいけば何かあるだろう。眠っているカナを起こそうとしたとき、ストレッチからメールが入った。
「さっきは言いすぎた、ごめん。君の住んでる周辺ですごい地震がまた起きたってテレビでやってたからメールした。ホント大丈夫なの?」
 意味がわからないメールなので無視した(あとで俺はそのメールの意味を知ることになる)。
 ともかく、嵐の前の静けさとは、そのときのことだった。カナを起こすのに難儀したが、俺たち4人は少しの希望と多くの嫌な予感を持って本堂へ歩を進めた。


 なんだこの静けさは。砂利道を踏む音が耳障りに聞こえるほどだ。心臓の鼓動が激しくなっていく。ほかの3人に聞こえそう。カナの息遣いが聞こえる。酋長が唾を飲む音が響く。ハネケはしゃっくりがひどい。本堂は威風堂々と存在していた。
 俺たちは意を決して内陣へとあがる階段を進んだ。誰もひと言も話さなかった。内陣は暗くてよく見えないが、奥の壁に何体もの天女が彫ってある。金色の装飾品のようなものがぶら下がっている。なかには蓮をかたどったものなどもある。寺に行くとよく見るものだが、正式な名前はわからない。天井には曼荼羅のような絵が描かれているが、これもなんのこっちゃい西山さんだ。それらがある150畳以上はあろうかという広間に、黒い影がいくつもある。仏像のように見えた。恐る恐るそれらに近づく。それはすべて即身仏だった。街の無機質さ、寺周辺の静けさとこれは関係があるのか。そう思ったとき、カナが突然笑うように悲鳴をあげた。見ると、一体の即身仏の鼻の穴に、巻物のようなものが刺さっていた。今にも即身仏が冗談を言いながら動き出すのではないかとビビりながら、その巻物のようなものを抜き取った。それは太巻きだった。結構太い。馬並に太い。人間、心頭滅却すれば何でもできるんだなあと感心する。
 太巻きの中身はきゅうり、たまご、かんぴょうというオーソドックスなものであった。しかし、なぜ太巻きを鼻に突っ込んだのか。ただで突っ込むわけはないと考え、パサパサになった太巻きを割いて、中身を取り出してみた。すると、かんぴょうに見えたものは紙で、広げると漢字のような、そうでもないような字で文字が書かれていた。読めない。カナも読めない。ハネケはしゃっくりが止まらない。酋長も読めない。と思ったら、何語かわからない言葉で朗々と読み始めた。
「酋長、つまりなんて書いてあるんだ。日本語で教えてくれ」
 酋長は答えるのをためらった。その表情は絶望していた。
「この人たちは自衛団デス。『自ラ即身仏となって、この混乱を鎮めた』と書いてアル。そして、ココに来たヒトたちにも、即身仏になることを勧めている。それがいずれ強大な力となり広がって、この周辺のみならず、日本中の混乱を鎮めるダロウと書いてある」
 なんだい、そりゃ。そんなオチですか。俺は腰が砕けて、畳にベロ~ンと横になったのです。酋長はワナワナしながら、何度もその紙を読み返している。カナは即身仏たちの間を歩きまわって、まだ何かないか探している。ハネケはしゃっくりを止めようとして、呼吸するのを止めた。でも、しばらくしてまたしゃくりが出た。
「あとでしゃっくりを止めるいい方法、教えてやるよ」
 俺のその言葉にハネケは初めて笑った。笑いながらしゃっくりした。それを聞いたのか最奥部にいたカナが「私の方がいい方法知ってる」と言った。驚いたことに彼女は「元気が出るテレビ」の早朝バズーカのようなデカいバスーカを持っていた。ついでに、マシンガンも持ち、弾をタスキがけして仁王立ちしているではないか。暗いなかでもそれははっきり見えた。
「あれ、ゲンカク?」と酋長が訊く。
 いいや、と俺が言うが早いか、カナはバズーカを即身仏目掛けてぶっ放した。俺たち3人はその衝撃で本堂の外まで飛ばされた。
 うまい、うますぎる十万石まんじゅう。
 じゃなかった。
 痛い、痛すぎる身体中。
 でも、なんとか生きている。ということは酋長も大丈夫だろう。心配なのはハネケだ。と思ってあたりを見回したら、酋長がしっかり抱きかかえていて安心した。
 それにしても、カナは何をしでかすかわからない女だ。ある意味ゾンビより恐ろしい。しかしながらある意味頼りになる。煙でもうもうとした本堂からカナがランボーみたいに出て来た。かと思ったら倒れている俺たちを見つけるなり「ダイジョウブ? ごめ~ん!」ってぶりっこして言いやがった。狂ってる、こいつ、俺より狂ってる。酋長はハイタッチで彼女を迎えた。ハネケのしゃっくりは止まっていなくて、酋長とカナは笑い転げていた。
 すべてが狂ってる。
 そしてすべてがまた狂い始めた。なんだかまわりがザワザワしはじめた気がしたんだ。ずっと遠くの方からザワザワが近づいてきている。
「カナ、即身仏は?」
「全部壊しちゃったぁ。だって、せっかくここまで来たのに、あんなのってないよ」
「来るぞ、ヤツらが来るぞ。どうするんだよ」
 俺は恐怖で震えた。実は小便少し漏らした。そんな俺にカナがキツい一言。
「男なら戦って死になさいよ」
 どーん!
 ガードを下げたところに、ミルコの左ハイがこめかみ付近に入れられた気分。ふらふらになりながらも俺は立っていた。カナを先頭に車に戻る皆に千鳥足で付いていった。
「死ぬのなんて嫌だよう。お母さん、キン消し買ってよお。お父さん、ファミコン買ってよお、クラスのみんな持ってるんだよ。先輩、今日吉牛おごってくださいよお、給料日前で厳しいんですよ。先生、遅刻見逃してくださいよお、ねねね。武藤さん、納品日、1日ばかりのばしてくださいよお。カヨコさん、一回でいいからヤラせてよお、先っちょしか入れないからさ。俺の童貞もらってよ。神様、俺の人生から苦しいことなくしてよお。俺って人に甘えてばかりだったなあ。自分でなんとかしようとしたこと、あんまりないなあ。男なら戦って死になさい、か。でもよ、死ぬのは嫌なんだよ。怖いんだよ。あ、怖くてうんこも漏らした」
 なのでパンツ脱いだ俺。上半身Tシャツ、下半身生まれたままの姿で俺は走り出した。いいや、これでは半分しか生まれ変わってないことになる。Tシャツも脱ぐついでにそれでケツを拭き、全力疾走した。
 速い、イチローより数段速い!
 あっと言う間にカナたちを追い抜いた。「ホセ、突き抜けたね!」
 カナが叫ぶ声が俺を追い越していった。風が気持ちいい。叫ぶとなお気持ちがいい。「ラ・ムー!」
 う~ん、狂ってる。
 気持ちがいい。
 自分をさらけ出すって気持ちがいい。
 真っ先に車に到着した俺はホームセンターでテイクアウトした真っ白なブリーフを履き、特価品になっていたプリンスの「パープルレイン」のジャケットがプリントされた紫色のTシャツを着て運転席に乗り込んだ。横には日本刀を携えて。さっき感じたザワザワは目の前まで来ていた。参道いっぱいにゾンビの群れ。初詣、もしくは朝の埼京線並の混雑。
「早くしろ! ヤツら、速いぞ!」
 飛び込むように3人が乗り込む。
 酋長がドアを閉めるのを確認してから、アクセルを全開で踏む。
 向かってくるゾンビの群れのなかに突っ込む。
 その勢いでフロントガラスが完全に割れた。
 運転席の横のガラスも割れているから、無数にゾンビの手が伸びてくる。
 それでも構わずアクセルを踏む。
 ゾンビを引き倒していく。
 隙を見て、日本刀を窓から横に突き出す。
 車に覆い被さるようにしてくるゾンビたちを斬っていく。
 ハンドルを握る左手が重い。
 しかし、日本刀を持った右手にはあまり重さを感じなかった。
 それだけ斬れ味がいいってことさ。
 ゾンビたちもさすがに怯んだ。
 カナはその隙に助手席と運転席の間から身を乗り出し、マシンガンをぶっ放す。
 酋長は信じられないパワーでワゴンの天井に穴を開け、そこから前方に何発もバズーカをぶちかます。
 ハネケは酋長の足にすがりついていた。
 車は下り坂でスピードに乗る。
 返り血がシャワーのように車内に撒き散らされる。
 血が目に入って視界が鈍る。
 目の前にジャイアント白田っぽい長身のゾンビと、高見盛っぽい巨体ゾンビが「か~め~は~め~」とやっているのが見えた。
 えっ、まさかと思った瞬間だった。
 「波~」とほぼ同時に車はふたりにぶつかって左へ大きくスピンした。
 コントロール不能。
 回転しながら助手席側から車は建物にぶつかって、どど~んと炎上。
 死ぬと思ったね、俺は。
 走馬灯のように人生がまぶたを駆け巡ることはなかった。
「i phone日本上陸する前に死ぬのは残念だなあ」と思っただけだった。


 顔が焦げる匂いを君は嗅いだことがありますか?
 事故の衝撃で上も下も右も左も、自分の身体がどうなっているのかもわからなくなっていたが、顔の左側が炎で焼かれていくのはわかった。
 絶望に突き落とされる匂いだった。
 俺はもう諦めた。
 ワールドカップの日本‐ブラジル戦のときだって、そうすれば良かったんだ。今思えば、所詮勝ち目なんてなかったのに、玉田の先制ゴールで早朝から吠えたのがバカらしい。
 だから期待するのは止めだ。
 僕は死にます。
 さよなら、僕の友達。
 たとえば僕が死んだら、そっと忘れてほしい。
 なんちて、ははは。
 あ~あ~、1週間でいいから女の子にチヤホヤされたかったなあ。
 あ~あ~、テレフォンショッキング出てみたかったなあ。
 あ~あ~、カラオケで「粉雪」うまく歌ってみたかったなあ。
 あ~あ~、人からありがとうって言われること、たくさんしておけば良かったなあ。
 いっそのこと、車がエクスプロージョンして即死したい。じわじわ焼かれて死ぬのは痛いし、熱いし嫌だ。死ぬ間際って意外と余裕あるもんだな。
 なんて思っていたら、毛深い二本の腕がぬうっと現れるのを見た。腕の毛が焦げています、いや、燃えています。そんな腕が俺の両脇を抱えて、なんか235度くらいぐにゃぐにゃ身体をまわされて、車の外に投げ出された。俺を車から救出したのは酋長だ。ハネケはカナの胸に抱かれている。いや、カナもそうしていないと安心できないように見えた。
 車は横倒しになって、煙を上げながら燃えていた。息が苦しい。それでも煙の間からゾンビが続々と押し寄せてきた。
 武器は、ない。
 何も、ない。
 あ、あった、足元に。
 死んだゾンビの額に直角に日本刀が刺さってた。
 酋長が叫ぶ。
「シャッター、壊ス!」
 シャッターには「808bank」と書かれていた。
 ええ、銀行です。そりゃあ、ディフェンス堅固でしょう。無理でしょう。
 だが、車が激突した衝撃で、失恋した佐藤春子のように、シャッターはかなりヘコんでいる。
 酋長はそれに体当たりしていた。でも、やっぱり、無謀っぽい。やっぱり銀行のシャッターだもんな。こんなことを思いながらも、俺はゾンビと応戦していた。斬っても斬ってもやってくる。それを見てカナは「どんだけぇ~」と叫んだ。
 古い、今更、何を。
 とはいえ、使い方のわからんその言葉を彼女はとても正しく使ったと思われます。
 酋長はシャッターを壊すのに夢中になりすぎて、後ろからゾンビに肩を噛まれる。それでも、酋長はシャッターへの体当たりを続けた。ゾンビの攻撃を振り払いながら、さらに何度か噛まれもしていたが、おかまいなしにぶち当たっていく。なんとか彼を援護したかったが、カナとハネケをゾンビから守らねばいけなかったし、酋長を手助けすることはできなかった。
 時折、「男気」という文字が彼の背中に見えたのは気のせいか。
 徐々に酋長の身体がグレーになっていく。
 それは気のせいではない。
 石になっていった。
 生きながらにして即身仏になろうとしているのだった。
 徐々にゾンビの群れが後退していく。俺もカナもハネケも圧倒されて、ただ見ていた。
 いや、神々しくて見とれた。
 こういう場合は仏々しい、か。
 そして、ついに酋長はシャッターをぶち破り、そのすぐ裏にあった自動ドアのガラスも打ち破っていた。
 わずかな隙間からハネケ、カナ、俺の順番で銀行のなかに入る。
 完全なる即身仏と化した酋長はゼンコウジで見た仁王像のようにたくましく威厳を放ち、カッコ良かった。どんな仏像よりも美しく見えた。
 ゾンビはなかに入ってこれない。酋長が守ってくれる。外で車が爆発した。
 俺たちは銀行内に入る手前の狭いエントランスゾーンで、力尽きてしゃがみこむ。
「僕、何もできなかった」とハネケが呟く。
「私も」
「俺も」
 同時にカナと俺が答える。ハネケが初めてしゃべったことに驚かないほど疲れ切っていた。炎上した車の煙がひどい。残りの力を振り絞り、銀行内とエントランスを隔てている自動ドアを抉じ開けた。
 自動ドアのガラスに映った自分の顔はゾンビみたいだった。でも、痛くはない。ひどく興奮しているせいだろう。
 なかに入るなり俺たちは久し振りに何の心配もなく、眠った。床やイスやカウンターで。お互いの身体の安否を気遣う体力も気力も、皆なかった。朝が来ても俺たちは眠り続けたのだった。


 顔の皮をカンナで削がれたような激痛で目を覚ました。カナもハネケもまだ眠っている。歩くと空気がカミソリのように傷に切りかかる。できる限りスローに歩き、銀行内をうろうろして薬箱がないか探す。とにかく消毒しなくては。ほどなくして給湯室の棚に薬箱に入ったマキロンを見つけた。給湯室の電気もついた。早速消毒しようと勇んだが、すり剥いたひざ小僧を処置したときの痛みを思い出して、ためらった。すり傷で結構しみるんだから、やけどだと悶絶するほどしみるんじゃないか。どーせならいっそのこと気絶してしまうくらいがいい。しかも一瞬で。そもそもマキロンをやけど痕にぶっかけていいのか疑問でもあったけれど、やってみるほかない。マキロンの蓋ごと開けて、思い切ってドボドボと傷にかけた。熱い、とにかく熱い。また焼かれたんじゃないかと思うほど熱く、痛かった。床に転がってその痛みに堪える。もんどりうつ、とはまさにこのことだと実感。股間に血のついたブリーフに、紫のTシャツを着て給湯室で悶絶する姿は、変態そのものだ。想像すると笑える。ううっと悶えながら、くくくっと笑う俺。七転八倒、抱腹絶倒。そこへ女の声。
「ホセなの?」
 カナ、いけないものを見てしまったかのように、申し訳なさ気に言うのはよしてくれ。どうせなら笑い飛ばして欲しかった。
「マキロン、ちょーしみるんだもん」
 涙がうっすら瞳を覆って、しかも声が震えていたから情けなかった。カナはやけどを見て、声が詰まった。慌てて駆け寄ってきて「どうして今までほっといたのっ」と叱った。
「昨日は痛くなかったんだよ。あんな状況だったからエンドルフィンでも出てたんだろ」
 カナはじっと傷を見つめる。そのとき彼女との距離は1㎜もなかった。うっかりうっとりしていたら、「もう一度マキロンかけるから覚悟して」と言って、断る間もなく思いっきりマキロンをぶっかけやがった。次の瞬間、痛さと怒りと驚きで、反射的にカナの手を跳ね除けていた。マキロンがスローモーションで飛んでいった。俺はMの字に開脚して後ろに倒れた。「いてええええええええええええ」という声もスローモーションだったから「いておおおおおおおおおおおおおおええええええ」と低音で響いた。カナはそんな無様な俺・オブ・ジョイトイにくすりともせず、「ごめんね」と上目遣いで言ったのだった。
「いきなりかけることないじゃん。心の準備ってものが…」
 カナは俺の言葉を遮る。
「そうじゃなくて、昨日のうちに気がつけなくてごめん」
「…あんな状況じゃあ、自分のことで精一杯だろ。それに、カナはハネケのことも見なくちゃいけなかったしな。謝るこたぁないよ」
 薬箱からカナはガーゼを取り出す。
「マキロンもガーゼもあるなんて、まだラッキーかもね」とカナは笑った。カナの顔をこんなに近くはっきりした光の下で見たのは初めてだった。カナの笑うと小さい鼻の穴がちょっとだけぷっくり膨らむんだな。
「カナって精神科医だったんでしょ。こんなでも治せちゃうの?」
「治せるわけないじゃない。応急処置くらいはできるけど。あと、はっきり言うけど、このやけどはもう一生痕になるよ」
 ピシャリ。
 そんな言葉がぴったりな言い方でカナは言い放った。情けないことに俺は泣いてしまった。涙は傷にしみない。カナはそんな俺を無視して傷にガーゼを当ててテープで止めた。「もうお嫁にいけないじゃないのっ」
 その言葉が俺にできる精一杯の強がりだった。カナは俺を抱きしめて「大丈夫」と言ってくれた。何が大丈夫なのかわからないが、安心して涙が止まった。「大丈夫」って無責任な言葉だけど、使うタイミングによってはとても頼りになる言葉だなあと思った。
「ハネケの様子、見てくる」と言ってカナは給湯室を出ていく。壁にかかったまん丸の時計は午前8時32分をさしていた。傷の痛みは和らいだとはいえまだ痛む。さっきが10なら8くらい。だから相当痛い。じっとしているよりは痛みがごまかせるから、俺は銀行内をブラブラすることにした。でも、大して面白くもなかった。会議室がひとつあって、トイレがあって、休憩室があって、ロッカーがあって、あとはいつも客として見ている風景のままだった。ちょっとばかりイベント要素がありそうだった金庫室は誰かが開けていった形跡がありありと残っていて、床と半開きの金庫に十何枚かの一万円札が落ちていただけだった。察するに銀行員の誰がこの騒動に紛れて盗んでいったんだろう。なんの役にも立ちはしなかったろうに。こんなの、ただの紙切れだ。せめて彼、もしくは彼女( あるいは彼ら?)が律儀にシャッターをしっかり締めて行かなければ、俺たちの役には立ったはずだ。
 まあ、今更恨んでも仕方がない。ハネケはかなり不安定な心理状態にあるようで、俺が近づくとパニくった猫のように、彼を抱いているカナのなかで暴れ出す。「ホセだから大丈夫だよ」とカナが言っても治まらなかった。
 仕方なく彼から離れて窓際に立つ。カーテンの隙間からに外でウロウロしているゾンビどもが見えた。20mくらいはこの銀行から離れている。それ以上近づけないらしい。だからと言って、自分たちもここから離れるわけにはいかない。ゾンビ映画はたいていがバッド・エンドだ。やはり俺たちに待ちうけるエンディングもそうなのか。
 たとえばだ、酋長の即身仏をぶっ壊して、そのカケラを持っていれば、ゾンビたちに襲われることはないかもしれない。そうだとして、俺たちはどこへ行ったらいいんだろう。
 そもそも酋長の即身仏を少しでも傷つけたら、効力はなくなってしまうのではないか。ぶっ壊すなんてもってのほか。そう考えるのが妥当かもしれない。ゼンコウジの即身仏がいい例だ。あれをぶち壊してしまったからゾンビが押し寄せてきたんじゃないか。
 どちらにしても、俺たちに待っているのはやはり「死」か。
「ねえ、ここにいるのが得策だと思う?」
 唐突にカナが聞いた。
「俺も今、それを考えていたところだよ。結局のところ、人生と同じで逃げ続けるしかないんじゃないかな」
「逃げ続ける」と言ったところが我ながら自分らしいなと思った。藤岡や酋長だったら「戦い続ける」という言葉を使ったに違いない。
「そうね、私もそう思う。あるときは逃げて、あるときは戦って生き続けるしかないって」
 カナはそう言ったが、彼女は無理だと思った。ハネケは今もカナの腕にしがみついて離れない。ハネケは彼女にとって足手まといだ。それを感じたのだろう、カナは言った。
「ハネケはわたしの患者さんなの。だから、必ず治してあげたい」
「本人がいる前で聞きにくいけど、彼はどんな病気なんだい?」
「不安感がものすごく強い。過敏すぎるの。でもね、それゆえにこの修羅場をくぐり抜けてこられたのかなって思うんだ。不安や恐怖に関して過剰反応し過ぎるのが、予知みたいな能力になってる気がする。だから、あんなことがあったのに大して大きなケガもしていない」
「まっさかぁー」
 漫画みたいな話だ、と思った俺自身を、思わず笑った。こんなゾンビが出て来たりする現実の方が漫画じゃないか。
「バッカみたい」
 Gがそう笑うのが聞こえた。これからも漫画みたいなことが起こるに違いないんだ。一発大逆転で俺たちが生き残るんだ。そう思うことにした。
 会議室にあったテレビをカウンターまで運んできて、付けてみた。信じられないことに「みのもんたの朝ズバッ!」が放送されていて、みのは黒々としていた。それが終わると「おもいッきりいいテレビ」、「どうぶつ奇想天外」、「みのもんたのサタデーずばッと」、「学校へ行こう!」、「クイズ$ミリオネア」、「Dのゲキジョー~運命のジャッジ~」と続いた。実を言うと「おもいっきりいいテレビ」の中盤あたりで、みのがクドくて嫌になったのだが、することがないので、我々は延々とテレビを見続けた。途中で気がついたのだが、テレビはすべて過去に放送されたものであった。「Dのゲキジョー」が終わるとまた同じ内容の「朝ズバッ!」がはじまった。そのあとの番組も同じだった。それでも我々はテレビを見続けた。不思議なことにみのを見ていると傷が痛むことはなかったのである。カナもハネケも不安が和らいだようだ。
 恐るべし、みのもんた。
 おかげで俺はうたた寝さえしてしまったのであった。ところが13回目の「クイズ$ミリオネア」で速報が入った。カナに文字通り叩き起こされた。それもそのはず、さっきの「クイズ$ミリオネア」では速報なんて入らなかった。これは過去に放送されたものだけれど、今現在放送されている。生きている人間が放送しているんだ。正座して速報テロップを待った。羽賀研二氏が渡辺二郎氏に電話を使って答えを教えてもらっている映像の上に、そのテロップが出た。
「米国、ゾンビ被害を抑圧するため、日本爆撃計画を国連などに許可要請」
 2回出た。羽賀氏は問題を間違えてゲームオーバー。いつも思うが「残念!」というみのの顔はちょっとだけ嬉しそうだ。みのは日本が沈没する際も「残念!」と言って少し嬉しそうに笑うのだろうか。
 アメリカが日本を見捨てる。
 その事実に俺はパーティーがしたくなった。
 YA・KE・KU・SO。
 給湯室の棚に隠すように焼酎が1升あることを思い出して、持ち出す。「焼酎じゃ、パーティーじゃなくて宴会って感じだな」と思いつつガブガブ飲んだ。カナも飲み、ハネケには無理やり飲ませた。俺一人で3分の2は飲んだがまったく酔わないので、うがい薬を飲んでトリップした。
 すると、工場で殴り殺したはずのもう一人の俺が現れた。
「お前、本当は死を望んでいる。だが、死ぬのは怖い。生きるのも怖い。そうだろ? 俺はそれを知っている」
「んなこたないよ」
「自分のことは自分が一番よく知ってる」
「そうでもないさ。いいや、自分のことを一番知らないのは自分だね」
「そう言うと思った」
「でまかせを言うのはよしてくれ。一体お前は何をしたいんだ!」
「これを見てほしかった」
 その直後、もう一人の俺は、目の前で頭を銃で撃ち抜いて死んだ。自分の望むとおり、自ら死を選んだんだとでもいうように。
「銃声が聞こえた」
「今もう一人の俺が自殺したんだよ。てゆうか、見てなかったの?」
 死んだもう一人の俺を指差す。だが死体は転がっていなかった。
 しかし、また銃声が聞こえる。遠くで聞こえる音。マシンガンをぶっ放している音。だが、奇妙なことに、今この銀行内で起こっていることのように感じた。
 銃声の聞こえる方へ行ってみる。カナとハネケが手を繋いでついてくる。どうやら銃声は金庫から聞こえるようだ。金庫室には誰もいない。恐る恐る金庫の扉を開けようとしたとき、ケータイが鳴った。ストレッチからだった。
「今取り込み中だからあとにしてくれ」
「なんでそんなことしているの?」
 ストレッチは泣いて電話を切った。またしても意味がわからない。仕切り直して金庫の扉を開ける。
 やはり何もなかった。
 空っぽで、真っ暗。
 だが、奥の方から銃声と悲鳴がかすかに聞こえる。「何が起きているの?」とカナは訊くが、俺にわかるはずもない。考えた挙句、金庫のなかに入ることにした。虎穴に入らずんば虎子を得ず。
「向こうで待っていてくれ」
 なんでそんなことを彼女に言ったのかわからない。自分ではない誰かに言わされたようでもあった。
 金庫に入るのと同時に俺はループスライダーを滑るように下へ落下した。落ちていく最中、俺はうんこだった。見知らぬおっさんの汚ねえケツの穴から出たうんこだった。和式便器の陶器の白が美しかった。
 その白に見入っていたら、多量の水に流される。それはループスライダーの終わりにプールに放り出されたときのあの感じに似ていた。もしかしたら、うんこが流されるときの感じかもしれない。
 とにかく、出た先は金庫室だった。
 カナとハネケはいない。
 ロビーから激しい銃声が聞こえる。恐らくマシンガン。連射が終わったあと、男の狂声が聞こえて、銃声が一発届いた。そのあとは静寂が訪れた。
 俺はそろりそろりと、ロビーへ向かう。顔のやけどが急に痛み出した。


 ロビーは殺戮現場と化していた。行員や人質が30人ほど死体になって転がっていた。皆逃げ惑ったのだろう、そこらじゅうに死んだ人間が寝ている。
 ロビーの真んなかあたりの床には、犯行者とおぼしき男が、短銃で頭を撃ち抜いた姿で横たわっていた。右手にはマシンガンがしっかり握られ、遺体の横に短銃が落ちていた。
 その死体はさっき幻覚のなかに現れた、もうひとりの俺。
 俺はどういうわけか至極冷静だった。現実感がまったくない。夢を見ている最中に夢だと気づくときがあるが、あれに似た心理状態だった。
 人が動く物音がする。目を凝らす。カウンターの下で震えている男と女がいた。
「大丈夫か」
 声をかけた俺は驚く。男と女も驚いていた。彼らはカナとハネケだった。いや、ここにふたりがいるわけがない。さっきの世界とは別のふたりだ。
「なんで? なんで生きてるの?」
 カナは怯えている。彼女の言葉を聞き流す。
「なんでここにいるんだ?」
 俺にはカナの質問に答えるほど余裕がなかった。状況が飲み込めない。するとハネケが言った。
「あなたが『向こうで待っていろ』と言ったから」
 その次の瞬間、DVDをスキップするように、あるシーンに飛ばされる。それはもうひとりの俺が、人質にしていた何人かの男に襲われるシーン。それは頭ん中で再生されたのではなく、実際にタイムスリップして、それを目撃した。
 俺が時空を超えてロビーの片隅に瞬間移動したそのときであった。隙をついて大きな男がもう一人の俺を殴り倒す。だがもう一人の俺は倒れながらもマシンガンでその男を撃ち殺した。完全にキレてマシンガンを四方八方に撃ちまくる。
 無差別発砲。
 むさべつはっぽう。
 ムサベツハッポウ。
 壁際に一列で座らせられていた人質たちを左から右へ、右から左へと撃つ。慌てて逃げ出す人質もいるが、弾丸よりも速く走ることはできない。人々の叫び声とうめき声は銃声に紛れながらも俺の耳に届いた。カナはハネケに覆い被さりを彼を守っている。それを見た俺は、彼女らの元に駆け寄り、覆い被さって、祈った。生き残ることを、ただひたすら祈った。
 もう一人の俺が乱射をはじめてから、数十秒で射撃隊が侵入してきたが、その数十秒が途方もなく長い時間のようにも感じた。
 もうひとりの俺は観念したのか、乱射を止め、短銃でためらうことなく頭を撃ち抜いた。
 俺はその一部始終を眺めていた。他人事のような気がしたし、映画を見ているような錯覚がした。
 射撃隊が突入したものの、無事だったのは俺とカナとハネケだけだった。あとは全員、もう一人の俺が殺した。
「なんで? なんで生きてるの?」
 俺を見たカナが怯えた声で言う。さっき言ったのとまったく同じ表情とトーンで。
「頭を撃ち抜いたのは俺じゃない。別の俺だ」
 説明したが、まったく通じていない。当たり前である。
 射撃隊や警官が生存者を確認する。
「容疑者、死亡」
 その声がフロアに響く。フロアはかなり煙い。「歩けますか?」と聞かれたカナとハネケは「はい」と答えて抱きかかえられるようにして立ち上がる。少し銀行内の緊張感が緩んだと思ったそのとき、警官が俺の顔を見て銃を構えた。
「動くな!」
 一斉に銃が俺に向けられる。
「殺ったのは俺じゃない。
 俺だけど、俺じゃないんだ」
 叫びたくなったが、そんなこと言って誰が信じるだろうか。
「撃てよ、どうせ死刑になるんだろ。待つのはごめんだ。今、撃ち殺してくれ」
 だが撃ち殺されなかった。
「その人は犯人じゃない」
 ハネケが大きな声で叫んだ。
「犯人が銃を乱射しているとき、覆い被さって僕たちを守ってくれた人です」
 その声に疑い深くではあるが、銃は下ろされた。こっちの世界のハネケはずいぶんたくましい。俺が人差し指をハネケに向けて笑うと、彼は唇を右に少し釣り上げてはにかんだ。
 カナとハネケは救急車で病院へ向かう。でも、俺はパトカーの後部座席に乗せられた。両脇に屈強な男が座る。やはり疑いは晴れていない。晴れることもないだろう。どんなに正直に話したところで、頭がおかしい奴と思われるだけだ。ストレッチからメールと電話があったけれど、あれはきっとこっちの世界からあっちの世界にだけ繋がったメールと電話だったんだ。ストレッチは銀行強盗に入った俺をテレビかなんかで見て電話をしてきた。ふとメールのことも確かめたくなる。
「あの、最近大きな地震ありました?」
 両脇の男に聞く。しばらくしてから渋々右側の男が「あったよ。親御さんでもいるのか」と言ったが俺が何も答えないと舌打ちした。
 車の外は小雨が降り出した。飼い主に連れられて歩道歩く柴犬。自転車を二人乗りする高校生カップル。軒下で雨宿りする腰の折れたおばあさん。険しい顔でランニングしている坊主頭の中学生。路面が雨に濡れる。街路樹の緑を小雨が濡らす。
 窓の外を通り過ぎて行く、そんな美しい人たちや光景を、狂った俺が眺めている。
 これは現実が幻覚か。
 こっちの世界かあっちの世界か。
 人生は試練か悪夢か。
 俺は生きているのか死んでいるのか。
 確かなものなんてない。
 確かなものなんて何もない。
 そのとき記憶のなかの君を思い出していた。君、とは君のことだけどわかっているのかな。それだけは確かなものであってほしい。


 俺は警察病院の精神科に入院させられた。銀行強盗の事件から1週間がたった。ヤツらにとって俺は得体の知れない厄介な男のようだ。DNA鑑定したら死亡した容疑者と一致、もちろん双子なんかでもないし、友人やら知人に俺と、銀行強盗して死んだ俺の写真を見せても同一人物だと言ったそうだ。顔は相変わらず痛い。だが治療を受けたおかげでだいぶマシになった。痛み止めも飲んでいるし、日常生活もなんとかやれる。ヒリヒリしたり、燃えるように熱いときもあるが慣れた。薬の副作用で常に頭がボゥとしているのは厄介だ。目の裏に薄い雲が漂っている感じで気持ちが悪い。あと、カナが言った通り、やけどの跡、ケロイドが消えることはないそうだ。でもまあ、少なくともここにいる限りはそのことで俺を蔑むヤツはいない。
 同部屋の6人は皆いい人ばかりで、一見こんな病院にいる必要のないように思える。俺の右隣の柿崎さんは筋金入りのヤクザだが、ひじょうに腰が低くて時々見舞いに来る部下の面倒見もいい。子どもがおみやげに持ってきたケロロ軍曹のぬいぐるみを抱きしめてでないと眠れないところがかわいらしい。
 左隣にいる桃瀬さんは阪急ブレーブスの元プロ野球選手。でも実は当時から熱狂的なドラゴンズファンで、「俺も中日好きです」と言ったら、それはもうかなりの勢いで語りはじめて、俺はそこそこしか選手の名前を知らない程度のファンなので申し訳ない気分になった。プロ野球チップスでドラゴンズ以外のカードをくれるのは嬉しいのだが、ベイスターズの種田が3回連続で出たので、そろそろ違う選手を出してほしいと願う今日この頃である。
 俺の向かいのベッドには梨田さんという人がいて、この人は1日中ポータブルDVDプレイヤーで映画を見ている。ハリウッドからミニシアター系までを網羅するが、特にブルース・リーを崇拝している。ここの病院では「死亡遊戯」でブルース・リーが着ていた黄色のトラックスーツの着用が義務付けられており病院から支給されるのだが、フィット感が甘いと彼はごねて自分で購入したものを着ている。漫画と音楽にもなかなかに詳しい人物である。毎日DVDをTSUTAYAかどっかでレンタルして持ってくる彼の妻は、巨乳で人気がある。俺は小さい方が好みなのでそれほどでもない。
 西瓜と書いて「ニシウリ」さんという、桃瀬さんの向かいの人は、とにかく一日中しゃべってばかりの人で、それを知らない俺は初日につかまって、うまいうなぎの見分け方の話やら、トレーニングに適したダンベルの話やら、掴みどころのない話を延々と続けられて、ぐったりしていたところ、見かねた柿崎さんが「無視しといて全然平気だよ」と言うのでそうしてみたら本当に全然平気だった。俺じゃなくて、どうやら俺たちには見えない人としゃべっているらしかった。この人だけはトラックスーツを着用せずトランクス1丁で院内を歩いているが誰も気に止めない。たまにハッピーターンをみんなにくれるので、いい人だと思う。
 柿崎さんの向かいにいるアップルさんはおじいさんがスリランカ人で、おばあさんがアイスランド人で、お父さんがそのハーフでお母さんは関西人の人だ。お母さんのお父さんはスウェーデン人で、そのお父さんには韓国人の友達がいて、その人は韓国人とフランス人のハーフで、イギリス生まれのシベリアン・ハスキーを溺愛していたが、愛犬に噛まれて死んだそうだ。とにかく、アップルさんはそんな複雑な人種構成のなかで育ったわりに、東北弁バリバリで、高校、大学とそっち方面で造船の勉強をしていたそうだ。その筋では有名な人らしく、ケータイゲイ小説を書いている。最初は戦艦ものの小説を書いていたが、彼女に頼まれてゲイ小説を書いたら大ウケして、そういう小説を書き始めたそうだ。ケータイ小説といっても実際はパソコンで書いているんだろうと思っていたら、本当にケータイで書いているのでびっくりした。打つのはあまり速くない。一度彼の小説を読ませてもらったが、官能ゲイ小説ではなく、純愛のゲイ小説で、結構面白かったので、今度俺をちょい役でもいいから出してよと言っておいたら、すぐに登場させてくれて、好評だったらしく、掲示板で俺をモデルにした男・マスオを主人公にした物語を書いて欲しいという書き込みが殺到した。なんか微妙にうれしい。アップルさんはゲイではなく、時東ぁみのファンだ。
 そんなわけで俺。今までずっとホセ・トレンティーノと思っていたら、こっちの世界では「田中正」という名前が本名だった。田中さん、と呼ばれてもピンとこない。女性が結婚して姓が変わったときってこんな感じなんだろうか。あと、俺が働いていた人間製造工場などは存在しなくて、そこにあるのはマネキンをつくっている会社と工場。しかし俺の本籍はその工場がある住所だった。父と母はすでに死亡していた。付き合っていたと思っていたアイドル・小松愛(あいと書いて「めぐみ」)は、彼女でもなんでもなかった。俺の写真を見て、「何これ?」と言ったそうである。さすがにその晩は枕を涙で濡らした。桃瀬さんがそっとチョコバットをくれた。クジはハズレだった。
 毎日が取り調べと治療の繰り返しであるが、警察は煮詰まっているようであった。当たり前だ。俺は犯人じゃない。でも犯人。だけど、犯人じゃないわけで。
 俺はといえば、顔の方は少しずつ良くなっているが、精神の方は一進一退であった。あのゾンビとの激闘は妄想だったのだろうか。入院した当初は確実に現実だったと確信できたが、今はそれがグラついている。精神病院にいる、という事実が確信を揺るがしているのであった。
 ここ数日、どこかから低い声が聞こえるようになった。
「のいならなゃちくなかいてきいでんなにのなけだいしるくはいせんじ」
 呪文のように繰り返されるその言葉。聞いていると気持ちが悪くなるので、そんなときは睡眠薬をもらって眠るに限る。でも、「この頃飲み過ぎだから」と看護師に止められた。なので、一時外出届を出して、薬局へ行き、全財産の2000円をはたいて睡眠薬を買い、公園の水で一気に飲んだ。それですぐ病院に戻ったのであるが、30分ほどたってもちっとも眠たくならない。水を飲みすぎたせいでトイレに行きたくなったのだが、お知らせ掲示板に、院長主催のラップバトルが開催されるとのポスターが貼ってあった。5日後である。「おいらも出るベえ」というところまでは覚えているが、それから急に記憶が飛んでいる。
 気がついたらベッドにいて、ものすごく息苦しくて喉が渇いていた。水を飲みに行こうと飲料水コーナーに向かったがフラフラしてまっすぐ歩けない。途中でジョン・レノンがオノ・ヨーコと裸でイマジンを歌っていた。水を飲んだ帰りにはジャニス・ジョプリンが廊下に布を敷いて、そこにサングラスを並べて売っていた。部屋の入口ではエミネムがあの呪文をラップしていたが、ベッドに戻ると坂本九がアカペラで「上を向いて歩こう」を歌いはじめたので、呪文は聞こえなくなった。
 それでも息苦しさは治まらなかった。仕方なく看護師さんに、さっき外出したとき睡眠薬を買って全部一気に飲んだことを告白すると、「そんなことしたら死んじゃうよ」と笑って「まあ今回は死ぬほどではないからほっときます。自業自得。苦しいのは罰です」と吐き捨てて出ていってしまった。それから俺は丸2日間眠り続けた。その間にアップルさんは俺を主人公にしたゲイ小説を書き上げサイトにアップした。


傘/林檎倫子
 仕事帰りにスーパーで会う青年。
彼にマスオは恋をしていた。25歳く
らいだろう。顔はジャニーズ系の甘
いマスクだが、スーツ姿に貫禄があ
る。都会から遠く離れた地方都市の
男にしては、着こなしもスマートで、
流行に敏感なビジネスマンが締める
ような、センスの良いネクタイをし
ている。きっと仕事もできるのであ
ろう。そんな雰囲気が全身から漂う。
 工場での仕事を終えて、スーパー
に向かうのが、だいたい20時前後。
マスオは汚れたツナギ姿で買い物す
る姿を彼に見られたくなくて、いつ
もあとをつけるように後ろから彼を
見守っている。ちょっとしたストー
カー行為だとマスオ自身もわかって
いるが、やめられない。マスオは毎
日半額になった弁当や惣菜で夕食を
済ますのであるが、彼はどうやらき
ちんと料理をするようで、毎日野菜
や肉、魚などをカゴに入れている。
マスオはそれを見ながらその晩のメ
ニューを想像するのも楽しみのひと
つであった。いつか声をかけたい、
そう思うが、月日はただ流れて積み
重なっていった。
 その夜もいつものように彼の買い
物姿をただ見守るだけだったマスオ。
彼よりも早くレジを済ませ、店を出
た。ところが雨が降ってきた。どし
ゃぶりの雨。傘は持ってない。こん
なときに限って、車を店から遠いと
ころに止めてしまっていた。この頃
運動不足だから、車を少しでも遠く
に止めて、せめてもの悪あがきを、
と思ったのが間違いだったと後悔し
た。このまま雨のなかを行くか、雨
が止むのを待つかと迷っていたら、
傘をさした若い女が慌てて入口に飛
び込んできてマスオに軽くぶつかっ
た。
「ごめんなさい。傘さしてたので見
えなくて」
 ゲイのマスオから見ても魅力的な
かわいらしい女だった。
「私がぶつかったから作業着、濡ら
しちゃいましたね」
 そう言うと女は薄いピンク色の少
女っぽいハンカチを出して、これで
拭いてくださいと言ったのだった。
「いや、お気持ちだけでいいんです。
今、雨のなかを走って行こうかと思
ってたんで気にしないで。どうもあ
りがとう。じゃっ」
 マスオは走り出す。しかし、数十
メートル走ったところで、排水溝の
蓋につまづいて、無様にヘッドスラ
イディング。左膝がじんじん痛む。
むき出しになっていた手のひらや腕
も、ところどころ擦りむいた。顔も
痛い。擦りむいたか、打ちつけたよ
うだ。昔は運動神経良かったのにな
あ。店内から漏れた光の先に、惣菜
コロッケが雨に濡れていた。
「大丈夫ですか!」と駆け寄ってく
る女の声がする。よりによってさっ
き入口で会った女だ。カッコ悪い。
恥ずかしい。どんな顔をしたらいい
のか困惑した。
「ケガは?」
 心配そうにマスオの顔を覗き込む
女。その後ろに男が立っている。そ
れは、あろうことかマスオが恋する
男だった。
「顔、擦りむいてる! どうしよう。
ねえ、タカオどうしよう!」
 おおげさにパニくる女に対して、
マスオは急に冷静になっていた。「こ
のコ、タカオっていうのか」と心の
なかで呟いた。
「顔、痛みます? そのほかに痛い
ところは?」
 タカオがマスオの顔を見ている。
さっきの冷静さはどこへやら、マス
オはまた恥ずかしくなって、 痛みも
忘れて立ち上がった。雨がすごい勢
いで降っていた。
「この度はご心配をお掛けし、そし
て無様な姿を晒してしまい、誠に申
し訳ございません! 小生、人より
頑丈にできておりますので、これく
らいのことではなんともございませ
んので、どうかお気遣いなく! お
二人のやさしさに心打たれ、雨にも
打たれ、感激致しました。どうかお
二人、お幸せにお暮らしくださいま
せ! では失礼します!」
 人間、極度の恥ずかしさを体験す
ると何をするかわからない。マスオ
は今まで一度も使ったこともないよ
うな言葉を口走っていた。さらに恥
ずかしくなり、急いで袋に惣菜と弁
当を詰めてまた走り出そうとしたマ
スオなのであった。
 そんなマスオをすかさずタカオは
呼び止めて、「これ使ってください」
と傘を差し出した。タカオの手と腕
に血管が盛り上がっていた。雨に濡
れて美しく見えた。このとき、束の
間のタカオとの相合傘であったこと
を、帰りの車のなかで気がついたの
だが、そのときはただただタカオに
酔いしれていた。
「でも、傘足りなくなっちゃうじゃ
ないですか」
 マスオが傘を遠慮すると「妻のが
ありますから」と幸せそうに笑って
言った。マスオが感じたそのなんと
も言えない気持ちは、失恋した夜の
感じに似ていた。
「じゃあ、遠慮なくお借りします」
「返すのは今度でいいですから。あ、
毎日お見かけしてるから、明日かも
しれませんね」
 タカオは妻と仲良く身体を寄せ合
って、ひとつの傘に入り車まで歩い
た。マスオはそのシーンを苦々しい
思いで見送った。マスオの気持ちを
知ってか知らずか、タカオはクラク
ションを鳴らして、駐車場を出てい
った。マスオは手を振る。多分、彼
には見えていないだろうと思いなが
ら。
 タカオから借りた傘は閉じてしま
った。
「雨よ、私の悲しみを洗い流してお
くれ!」
 こんな夜は少しくらいドラマの主
人公を気取ったっていいじゃないの。
 そう思うマスオだった。
 次の日、マスオは風邪で工場を休
んだ。工場の機械は毎日せっせと働
くが、マスオの身体と恋心は、そう
はいかない。
 彼はベッドのなかで呟く。
「女心は強そうで脆いのよ」


 睡眠薬で深く眠っている間、俺はまたあっちの世界に戻っていた。俺がロビーのソファーの上で目を覚まして起き上がるなり、カナが駆け寄ってきて俺に抱きついた。「どーなることかと思った」と言って顔をくしゃくしゃにしている。彼女が言うには、俺が金庫から一向に出てこないから、恐る恐る金庫を覗いたらを俺は気絶していたそうで、しばらくすると心臓の鼓動がくるりの「WORLD'S END SUPERNOVA」のスイングしてネバるベースラインになったのでハネケと1時間踊り続けている際に、俺がムクムクと起き上がったとのことであった。
 驚くべきことは、カナとハネケが一緒に踊り続けたことでふたりに恋が芽生えたことであった。ハネケは挙動不審で、話してもドモリっぱなしであるが、これまでのハネケとは大違いだ。だっていつも隅っこでひざを抱えて震えた少年だったのだから。
 恋の力ってすごい。
 若いってすばらしい。
 と思った俺は自分がおっさんになったことを自覚した。
 カナとハネケは銀行を出ることを決心していた。ふたりがそう決めたのであれば、俺もそれに従うのみである。
 効果は未知数だったが、酋長の即身仏を叩き壊し、それをできるだけポケットや袋に詰めて銀行を出た。即身仏を壊したせいで、ゾンビが入口に押し寄せていた。ゾンビの頭を目掛けて思いっきり、即身仏のカケラである「石」を投げつける。というか、投げつけるほどの距離もなかったので、押しつけたというのが正しい。するとそのゾンビは頭が爆発し、死亡。俺たちはそのやり方で次々とゾンビを撃破していったのである。
 しかしながら、ゾンビの数は圧倒的だった。俺は残りの「石」をカナたちに渡して、日本刀でゾンビの攻撃に応戦する。ゾンビはまったく怯む様子もなく襲いかかってきやがる。バーゲンセールのもみくちゃ感に、走ってまでして福袋を奪い合う正月のデパートのような必死さを足して、さらに倍にして凶悪なスパイスで味付けしたかのような修羅場である。
 次第に体力は奪われていく。しかし、そんな人生最大のピンチが、俺をゾーンに突入させた。剣豪のような剣術と素早い足さばき、見えるはずのない真後ろまで広がった視界を手に入れる。360度、どこからの攻撃にも屈しなかった。背後にいるゾンビもバッタバッタと斬った。その強さにゾンビも慎重になって、俺を襲う機を窺っていた。千秋楽横綱相星決戦のようなヒリヒリとしたにらみ合いが展開される。俺の集中力が極みに達したとき、「ハネケ!」と叫ぶカナの声が耳に届いた。身体は俺が思うよりも速く、その声の方向に足を踏み出していた。座頭市のようにゾンビを斬りまくっていく俺に急に違和感を感じた。これは夢なんじゃないかと思った。
 「石」を切らしたハネケは見事に喉元をゾンビに噛まれていた。それでもカナはまわりのゾンビを倒そうと「石」を投げまくっている。しかしあまりうまく当たらない。俺がなんとかハネケのまわりのゾンビを倒したとき、すでにカナの「石」はなくなっていた。
「危ない!」
 そう思ったが、時すでに遅し。
 カナは右太ももをゾンビに噛まれてしまった。一瞬遅く俺はそのゾンビの首を斬り落とす。カナとハネケの身体をこれ以上ゾンビに食われないよう、寄ってくるゾンビというゾンビを斬りまくった。なんで俺はこんなに強いのだろうかと疑問に思った。
 前世は宮本武蔵か佐々木小次郎か。
 はたまた坂本竜馬だったか。
 やはりこれは夢なのか。
 現実も夢も悪夢だ。
 哀しみと怒りの剣が、ゾンビを斬る、キル、KILL。ある者は身体をタテに真っ二つに斬られ、ある者は首をちょん斬られ、ある者は顔を突かれた挙句、えぐり回されて剣を貫かれた。
 半日ほどゾンビを斬り続け、俺はついにへばった。ポストに飛び乗り、そこから電灯につかまってテッペンまで登った。その途中迂闊にも日本刀を落としてしまった。ゾンビは電灯に登ってはこれないが、頭のいいゾンビが電灯に体当たりをはじめて、大勢のゾンビが電灯を押し倒そうとし始めたのであった。
 万事休す。
 俺は電灯の上から遠くの空を眺めた。死ぬ前に見るにはシケた空だった。下はご存知の通り、ゾンビの海。大荒れの海だ。
 そのなかにゾンビになったカナを見つけた。誰かを探している。ハネケだ。ゾンビになったのに、恋に生きるのか。俺もハネケを探した。すぐに見つかった。
「カナ! まっすぐ行けばハネケに会える。がんばれ!」
 カナにそれが届いたのかはわからない。ハネケもゾンビにはなっていたがカナを捜し求めていた。
「ハネケ、まっすぐだ」
 叫ぶ、電灯が揺れる。ゾンビたちの体当たりの衝撃で、落ちそうになる。心なしか電灯が曲がってきた。ディズニーアニメみたいにありえへんくらいぐにゃ~んと曲がってきている。カナとハネケの距離はもう3mもなく、お互いに気づいた模様だが、ゾンビが密集しているため、なかなか進めない。山手線が止まって混乱する新宿駅南口周辺のように進まない。
 が、必ず最後に愛は勝つのだ。
 ようやくふたりは出会った。ゾンビになったカナとハネケが抱き合ってディープなキスをした。感動した。お互いに顔を食い合っている。あまりの激愛にシビれる俺。そのとき電灯が折れ、ゾンビの海に落ちた。
 でも、食われなかった。ゾンビに胴上げされた。「1年生の僕が胴上げされるとは思ってもいませんでした。ああ、やっぱり俺は何かを持っている人生なんだなあ」と、宙に舞いながらしみじみ思ったのであるが、それも束の間、宙を舞うこと6回目のとき、ドサクサにまぎれて踵を噛まれまして、まあ、そんなひどくはなくて歯型がつく程度だけど、ゾンビに噛まれたことは間違いないわけで。
 ゾンビになるなんて嫌だ!
 と叫んだら、俺は警察病院のベッドの上で目を覚ましたのであった。
 良かった! 夢だった!
 俺を放っておいた看護師が横にいて、「よく眠っていたね。ちょっとだけ死んじゃうんじゃないかって心配したけど損したな」と笑って出ていった。念のため、噛まれた踵を見る。ジョーズのテーマが頭で流れる。
 デーーレン、デーーレン、デーレンデーレンデーレンデーレンデーレンデーレンデーレンデーレン!
 うぎゃー。
 か、噛まれてる…。
 歯型が残ってる。
 あれは夢だった、と思うことにする。
 だからゾンビにはならない、と思うことにもしてみた。でも、歯型はついている。寝ぼけて自分で踵をかじったんだな、そうだ、そうに違いない。そう思い込もうとすればするほど、不安が増していく。ゾンビにならないとは言い切れない。髪ない、金ない、彼女いない俺は遺書を書くことに決めた。「工場・オブ・ザ・デッド」という名の遺書だ。俺の生き様と狂った頭ん中を書き残す。決めたら即実行が俺の主義。思いつくままに、ペンが進むままに、なすがまま書いた。

 パスタはママー、
 マニのママは陽気なママ、
 宮崎県知事そのまんま~。

 院内ラップバトル大会まであと3日。


 パインアメの舐めすぎで、口のなかが痛い。口の上の方。鼻の穴と繋がっている方。
 遠くで小さい女の子がえらい勢いで叫んでいる。ヒステリックに、ストイックに。見境もなく叫んでいる。
「この声ね、しょっちゅう聞こえてくるよ。気に入らないことがあるとわめくらしいの。親もずいぶん厳しいみたいでね。子育てって大変だわね」
 俺は今、病院内の理髪室で、院長に長く伸びすぐた髪を切ってもらっている。女の子の声が聞こえるのは、窓の外から。窓から風が吹き込んでくるたび、カーテンがふわりとなびく。団地のどこかの部屋で女の子がわめいているそんな時間帯。あんなふうに何の見境もなく泣いたりわめいたりすることって一体いつ以来やってないだろう。ゾンビとの戦いの最中を除いて。俺、そんなこと考えながら、刈られていく自分の頭を鏡越しで見ている。
「ところでさ、タダシちゃん、結構おでこキテるね~」
 オカマ口調で院長は笑う。頭にきてもいいのに、院長から言われてもどうしてか怒りに達しない。彼は警察庁の上層部を構成する父を持つ。この若さで院長になったのも、そういう権力が働いたからではあるが、彼はそのことに後ろめたさを持つわけでもなく、傲慢さを見せることもなくて、あるがままに生きている。計算しているところがないように見える。無邪気でもある。でも空気は読める。
 そんなこんなで院長は皆から慕われている存在だ。彼のことを看護師と患者の半分は谷村さんと呼び、あと半分はシンジさんと呼んでいる。
「シンジさん、それ、気にしてるんですから、言わないでくださいよぁ。あ、言っとくけど、ハゲ隠しで坊主にするんじゃないですから。今度のラップバトルにかける意気込みっすから」
 医者になる前はカリスマ美容師としても名を馳せ、無免許がバレてこの道に進んだという武勇伝を持つ院長は、サッポロ生まれサッポロ育ちの35歳。俺とそんなに変わらない。ナガノとは大学進学以来の縁で、ナガノ愛を熱く語ることを、ところかまわず憚らない。院長が今のオカマ口調になったのは、美容師時代。なぜそうなったのかは誰も知らない。いや、実は俺だけは知っている。
「本当の自分を見せるのが怖くて、いつの間にかオカマ口調になってた」
 院長はあの日の夕方、ショボイ夕景が見える病院の屋上で缶コーヒーを飲みながら言った。病院は丘の上に建ち、晴れた日は景色がきれいだ。看護師が洗濯物を干し、患者たちはゴムボールで野球をやったり、フットサルをやったりする。洗濯物の洗い立ての香りと看護師の香水のほのかな匂いが気持ちいい。
 話が逸れたので、元に戻そう。とにかく俺は院長に髪を切ってもらっている。理髪店にあるようなしっかりとして重そうな皮製のイスに座り、院長のバリカンさばきを見ている。
「で、どうなの、調子の方は?」
「痛みはだいぶ和らいできましたね。痛み止めのせいか、眠くなりますけどね」
「いいや、そうじゃなくて、リリックの方」
「あ~、そっちの方ですか。そっちは手強いッスね。言葉の整理がつかないっていうか、心の整理がつかないっていうか」
「整理がつかない? そういうものは整理するようなものじゃないわよ。問題は自分のなかから何か出てくるかどうか。伝えたいことがあるかどうか。吐き出さないといけないものがあるかどうか。そういうのはあるの?」
「ええ、今にも溢れ出さんばかりにありますよ」
「だったら、それでいいじゃない。溢れ出てくる言葉をただバックトラックにのせてHIP-POPすればいいんだと思いますわよ、おほほ」
 院長はものの10分で俺の頭を刈り上げてくれた。長さは1㎜あるかないか。しかし、ラップバトル当日にまでの2日間でも髪は伸びる。それでは納得がいかない。無駄な言葉を削ぎ落とすように、無駄な髪の毛も削ぎ落としたい。バトルの当日、カミソリで削ぎ落とそう。
「髪で隠れていたからわかんなかったけど、頭のにきび、結構ありますね、俺」
「20すぎたらニキビじゃなくて吹出物っていうんだよ」と院長はからかったが、俺の頭から血が出ているのを見るなり、急に真面目な顔になった。
「バリカンで切っちゃったみたい」
 自分では痛みを感じない。心配そうに院長は後頭部を見つめる。
「ぜ~んぜん、大丈夫っすよ。こんなの唾つけとけば治りますって」
 右手の人差し指と中指で後頭部をさわる。わずかな血が指を濡らした。匂うと加齢臭がする。
 加齢臭・イン・マイ・ブラッド。
 そして、舐めると黒柳徹子の味がした。
 俺の血は、徹子の味がする!
 それは衝撃の真事実であった。


 昨夜、消灯時間後、頭のニキビ(吹出物)をいじりながら、「葉隠」を読む。
「一瞬を重ねることが人生というもので、それを悟れば、ほかにするべきことはない」
 その一文に感銘を受けた。読みながら乾燥したニキビを剥がす。かさぶたのように頭皮から剥がれる。それは小さな快感であり、剥がせるニキビがなくなるまで、それを続けた。眠る直前に長新太「みみずのオッサン」を読み、斬新な色使いに感動して涙を流しながら眠った。
 朝起きると、ベッドの右側の床に俺の顔が5つ、カットマネキンみたいに並んでいた。なんとか戦隊みたいな感じで、赤、青、緑、黄色、ピンクの顔があった。顔はやけどする前の顔だった。どうやらニキビのカスが一夜にして育ったらしい。それぞれがウダウダとクダをまくのでうるさいったらありゃしない。赤は自信に満ちて、強く生きようとしている。同時にやさしさも兼ね備えている。青は弱い自分で、怯えている。どうやら鬱状態にあるようだ。緑はゾンビになった俺。なんだか臭い。言動も狂っており、心は腐敗している。黄色は裏切りと嘘にまみれている。黄色の俺だけは黙っているが、表情からして卑しい。汚い心が透けて見える。ピンクは延々と下ネタばかり言っていて嫌んなる。俺はそこまでエロくはないと思っていたのだが、あんまり酷いので自分を疑ってしまう。
 珍しい光景なので、いろんな部屋から患者やら見舞い客がやってきて、5色のカットマネキンを見ていった。桃瀬さんが整列係をかって出てくれたのであるが、看護師まで並んでいた。それで皆が口々に言うのである。
「で、どれが本当の君なの?」
 知らん、俺は知らん。知らんから、こういう病院に放り込まれたのではないか。
 いやいや、全部が自分だ。だからこその強制入院だ。
 そうなのか?
 自問自答し続ける俺。煮詰まった頃、脳内で「第4649回金網バトルロイヤルデスマッチ」のゴングが鳴った。ルールは簡単。俺自身と5色それぞれの俺が、覆面を取る要領で顔の皮を剥ぎ合うというものである。脳内では俺自身以外の俺も身体を持っていた。観客は誰もいないが歓声は聞こえる。ひとりひとりを紹介するリングアナウンスに歓声が沸いた。
 そしてゴングが鳴る。まっさきに標的にされたのは予想通り青い俺だった。赤の俺が青い俺を取り抑え、ピンクの俺が青い俺の顔の皮を剥いだ。開始から15秒。青い俺は顔の皮を剥いでも、青い俺だった。
 ピンクの俺が青い俺の顔を剥いでいい気になっていると、黄色い俺が素早くピンクの俺を倒し、顔の皮を剥いでしまった。さすがに黄色い俺はやり方が汚い。やはりピンクの俺も顔の皮の下はピンクの俺だった。
 ここまで31秒が経過。リングに残っているのは、俺自身と赤の俺、緑の俺、黄色の俺。次の標的となったのは、黄色い俺だった。汚いやり方に俺たちは怒ったのである。俺自身はヤツの右腕を、緑の俺は左腕を抑えて、赤い俺が抵抗する黄色い俺の顔の皮を剥ごうとした。
「金をやるから取引しよう。いい女も紹介するぜ。な、な、な?」
 この後に及んで戯言を抜かすのには、情けない思いがした。黄色い俺も、やっぱり黄色い俺であった。
 開始から2分13秒。残るはあと3人。俺自身にとっては赤の俺も、緑の俺も手強い。しばらく、お互いにリングを動き回るものの、一定の距離を保ったままだった。それが5分くらい続いて、先に動いたのが緑の俺だった。俺自身に襲いかかると見せかけて、赤の俺を襲った。赤の俺は隙あらばやっつけてやろうと俺自身に近寄ってきたのだが、そこを狙われた。緑の俺は赤い俺の胸に強烈な噛み突きを見舞って、赤の俺が苦しむ隙に顔の皮に手をかけた。
 そのときである。リングアウトしたはずの黄色い俺が乱入してきて、緑の俺の顔を剥いでいったのである。もはやルール無用。緑の俺はあえなく失格となり、リアルなゾンビ顔を晒すことになった。その顔は完全に腐り、じゅくじゅく膿が出て、どす黒い血にまみれていた。
 さあさあ、リングは赤の俺と俺自身の一騎打ち。赤い俺は緑の俺から傷を負って動きが鈍いが、実は俺自身の方が不利だ。顔のやけどは触られただけでも痛いのである。痛みに悶えている間に顔の皮を剥がされてしまうだろう。
 さて、どうしたものか。俺自身は赤い俺の左へとまわりこむ。左の胸に傷を負っているからだ。そうはさせまいと、赤の俺も左をとられないよう足を運ぶ。そんなわけでグルグルと俺ふたりはリング上をまわり続けた。それで、中学生のときデートで遊園地に行き、コーヒーカップに乗って酔って、そのあと2時間ほど何もしゃべれなくなった苦い記憶がよみがえった。きっと赤の俺も思い出したに違いない。そのとき一緒にデートに行った弥生ちゃんは、中3のときに千葉に引っ越してしまった。25歳で市役所勤務の男と結婚して、驚いたことに新郎は俺と同じ高校の野球部で2番バッターだった男であった。二人の出会いは大学の軽音楽部で、まあバンドとかクラブイベントをオーガナイズするサークルだったわけで、そこでメイクラブしたそうな。俺はその結婚式でプリンス「LOVESEXY」のジャケットのモノマネをしたが、思いっきりスベった。
 そんなわけでグルグルまわり続けて、不覚にも俺自身は目がまわってしまい、ノックダウン。赤い俺に簡単に顔の皮を剥がされてしまった。顔の皮を剥いだ俺はオダギリジョーだった。赤い俺はそれにびっくりして、自分自身で顔の皮を剥がしたが、赤い俺の顔だった。激怒した赤の俺は、青、緑、黄色、ピンクの俺を殴り倒していったが、俺自身は逃げ足だけは速いので、街に出かけてかわいい女のコを捜した。顔がオダギリジョーでナンパが成功しないわけがない。だが、話術に自信がない。そんなんで成功するだろうか。ちょっと不安になったら、青い俺になってしまった。そんなんテキトーに嘘やデマカセで切り抜けたらいいんだと思い直したら黄色い自分になって、かと思ったら下心がモロに出てしまい、ピンクの俺に。黄色になったり、ピンクになったりを繰り返した。それを繰り返すうちに緑の俺になった。緑って、黄色と青がまざって緑になるんじゃなかったっけ? きっと心が腐ったせいだな。で、最後にはオダギリジョーに戻らないことに怒り狂って、赤の俺になってしまった。赤の俺もさすがに頭に来ることがあるらしい。コンビニでガリガリくんを買って頭を冷すことにする。すると、俺自身に戻った。顔はオダギリジョーじゃなかったけれど、やけどのあとがなくなっていた。
 自問自答、万歳。
 顔が元に戻ったぞ。
 現実に帰ったら、剥がしたケロイドを右手に握っていた。やけどのあとが急に消えたものだから、またそれを見に大勢の人が病室を訪れて、ある人たちは驚き、ある人たちは「良かったね」と言い、ある人たちはあまりのことに事実を認めなかった。5色の俺のカットマネキンはみんな「オメデトウ」と言って、口にくわえたクラッカーを鳴らしてくれた。結局、どんな色の俺も、俺自身だったのである。
 彼らにはお礼に剥がしたケロイドをあげた。


 ラップバトル当日の朝、いつもより早く目が覚めた。早朝5時すぎ。看護師や警備員に見つからぬよう、こっそり風呂の浴槽に湯をはり、「月刊 大相撲」を読みながらゆっくりと浸かった。まだ目が覚めておらず、途中ウトウトしたように思う。30分もすると頭に多くの玉の汗をかき、いくらかの塊になると、額や頬を伝って湯に落ちた。身体中の毛穴という毛穴が全開になって汗が出ていく感じがたまらなく気持ちが良い。読んでいた「月刊 大相撲」はふにゃふにゃになり、頁がくっついてしまう部分もあった。しわしわになった指先ではなかなかくっついた頁を開くことができない。女のヌードならまだしも、太った男の写真や記事を見るために、そんな苦労をするのは我ながら情けなかった。
 浴槽を出ると、カミソリで伸びた髪の毛と髭を剃った。伸びた、といっても1㎜に達するか達さないかくらいの長さであるが、俺にとっては大きな違いであった。カミソリは俺の頭にあるニキビを容赦なく傷つけ、血が出た。長く浴槽に浸かっていたせいもあって、血は止まらない。それでも構わず髪の毛を剃る。文字通りツルツルピカピカになるまで剃った。これから戦争に行く特攻隊のような気分であった。シャワーで頭の泡と血を流すと、ヒリヒリと傷口が痛んだ。やけどのときに比べたら小さなものであるが、案外と痛む。その痛みによって、自分は生きているということを改めて実感した。これまでゾンビとの戦いなどで、何度も痛みを経験しているし、それによって生きていることのありがたみを感じたこともあった。しかし、その小さな痛みは今まで以上に生きていることを強く感じさせるものであった。ついでにパイ毛を剃ったところ、誤って右乳首を剃ってしまい、乳首取れたかと思うくらい痛かったけれど、そんなことはなかったのであるが、血がドバーっと出て上半身が薄い赤に染まって、血がへそにたまったもんだから、ビビッてシャワーを乳首に当てたらものすんごいしみて、今度こそ乳首取れたと思ったが、やっぱりついていたので安心したのだけれど、すんげえ痛くて涙も止まらず、血もいつまで経っても止まらなくて、もうどーでもよくなって白いTシャツを着たら、みるみるうちに血がTシャツを赤く染めていったのだが、それは右乳首を中心に歪んだ円を描き、モダンアートのようにも見え、また日の丸のようにも見えたので、カッコイイと思い、俺はそのままのTシャツは脱がなかった。
 部屋に戻ると床に並んだ俺の首の赤以外が、ストロベリーショートケーキに変わっていて、リリックを書いた小さなメモ帳にそのとき頭ん中に浮かんだ詩を走り書きしながら、それぞれのイチゴだけを食べた。
 赤の俺が今メモしたばかりのリリックを吐き出す。それに続けて即興でリリックをカブせる。赤の俺がそれに続く。そんなことを繰り返していたら、筋金入りのヤクザの柿崎さんが目を覚まして「おはよう。今朝は気持ちいい目覚ましで起こしてもらったな」とあくびをしながら言った。柿崎さんは50すぎのおっさんだが、組の若い衆の影響で聴く音楽はもっぱらHIP-POPばかりだ。THA BLUE HERBを崇拝している。ブルース・リーマニアの梨田さんも大会にエントリーしている。音楽にも精通しているが、浅く広く聴くタイプなので、柿崎さんほど手強くはないだろう。むしろケータイ小説家アップルさんの方がヤバそうだ。HIP-POPにはまったく興味がないけれども、言葉を商売にしている人だけにあなどれない。元プロ野球選手の桃瀬さんと、いつでもしゃべっている西瓜さんはエントリーしていない。桃瀬さんは別として、西瓜さんは以外と出場したら面白い存在だったかもしれない。いずれにしろオーディエンスとして同部屋の仲間に声援をおくってくれることだろう。
 ラップバトルには36人のエントリーがあった。自分と同部屋の人たちのスキルと、初代、前回チャンピオンの院長のスキル以外は想像つかないが、俺にできることはその瞬間に溢れ出る感情をバックトラックにのせてラップするだけだ。まさに「葉隠」の一文「一瞬を重ねることが人生というもので、それを悟れば、ほかにするべきことはない」のである。
 朝8時30分。病院の地下2階でラップバトルがはじまった。俺は「勉族」とタテに刺繍されたベースボールキャップをかぶり、デンバーナゲッツのバスケット・パンツに、下駄というスタイルで、そこにいた。もちろん血染めのTシャツも着ている。実は乳首から出た血がTシャツにくっついたまま固まってしまったので、脱ぐに脱げない。無理に脱ごう尾すれば今度こそ乳首がもげないとは言い切れない。
 会場の雰囲気は働いていた工場にどこか似ていた。薄暗くて、行き場のない不穏な感じだ。それは表立って存在しているわけではないが、会場の隅っこの方で目立たないようにそおっと膝を抱えて座っているように存在した。
 オーディエンスは300人くらいだろうか、フロアを埋め尽くして盛り上がっていた。病院の関係者だけではない。一般人も混じっている。もちろん俺が感じているような不穏さを、彼らは微塵も感じていない。これから行なわれる「祭り」に心躍らせている様子だ。
 バトルは1対1で行なわれ、先手後手でラップする。必ずしも相手を罵るラップでなくとも構わないが、先手がディスしてきたら、後手はそれを受けて立たねばならないだろう。そうでなければオーディエンスが納得しない。勝敗を決めるのはオーディエンスの歓声の大きさだ。院長が2回連続で優勝できたのは普段から彼を慕う患者や看護師が多いせいだと考えていたが、柿崎さんは「それは違う」と以前言っていた。院長のバトルを見るのが楽しみだった。対戦順を決める抽選はHIP-POPのCDジャケットを使って行なわれた。事前に用意されたトーナメント表に「パブリック・エネミー」とか「RUN DMC」とか「エミネム」とか書いてあって、抽選箱にはCDジャケットが入っているという仕組み。次々とステージ上で参加者がCDジャケットをひいていく。梨田さんは「ウータン・クラン」をひき、柿崎さんは「バニラ・アイス」をひいて苦笑していた。柿崎さん以上にすごかったのは院長で「MCハマー」だ。院長は第1戦での登場となった。相手はまだ決まっていない。俺の抽選順は26番目。院長との対戦だけは避けたかったが、まあ、10分の1以下の確率だから大丈夫だろう。そう思いながら、抽選箱に手を突っ込む。一番初めに触ったCDジャケットを引き上げた。目に飛び込んできたアーティスト名は「MCコミヤ」? その名はトーナメント表では「MCハマー」の右隣にある。いきなり院長と戦うことになったのであった。


今 まさに今 決戦のとき
いわば 武蔵 小次郎 巌流島
今 この瞬間 まさに戦うべきとき
だが 戦う相手はお前じゃない
大人子どものお前じゃ役不足
ただ 補足するなら
修羅場の数がお前に足りないだけ
そんなお前には勝ち目はない
あえて言おう カスであると
ただし 俺には明日はない
それを俺は悲観しない
俺が向き合う相手は 俺自身
なんて そんなこというほど
俺はヤワじゃない
ザクとは違うのだよ ザクとは
今 まさに この瞬間が
俺が相手すべきモンスター
スターラスター 小学生の夏休みに
憑かれたように熱中した
恐れることなく 怯えることなく
目の前の敵を撃ち落としていった
「人生はゲームだ」
新宿ションベン横丁を
ハシゴするアイツは酔っ払うとそれが口癖
ヤツの言うとおりなら 人が生きる道を
俺は迷わず たゆまず 生きていける
だが 現実はそう甘くはない
3丁目のババアは年金暮しで生活苦
その日暮しのアイツも借金苦
「人生は長すぎる」
それもアイツが酔っ払ったときの口癖
暮しは暗し
アイツはそれを知って 首をくくった
くぐった修羅場は パンパない アイツ
江頭のトレードマークは黒のタイツ
それは今は関係ない
俺も知っていた
人生は長すぎるって
だが 俺の場合 死ぬには遅すぎた
葉隠 言葉きれぎれ
今を積み重ねていくことの
大切さ 知ったから
過ぎたことを降りかえっている余裕はない
先のことを計算する頭もない
居間で茶を飲み 人生について考えてみる
それは無駄で意味のないことだと
お前はわかるか
わかるなら今 ステージにあがれ
そしてマイクを握れ
韻を踏めばいいってもんじゃない
整理のつかない言葉は
整理する必要がないから整理できない
インプットだけじゃつまらない
マイクを持って アウトプットしろ
お前の今を
俺は俺の今を アウトプットする
マイクで 言葉で さまざまな場所でだ
俺が立っている場所が
いつでもそこが巌流島となる
もしもギターが弾けたなら
思いのすべてを
ノイズにして 世界に伝えることだろう
この瞬間と対峙していくことだけが
人の道を生きていく術だ
頭ん中がどんなに狂っても
そうしていくしかない
道はない そこにしかない
3つ数える 覚悟しろ
1、2、3
覚悟できたか
実は俺 まだ覚悟できてない
何を言いたいか わかっていない
いや ない ない 言いたいことが 何もない
だがお前にやられはせん
やらせはせん やらせはせんぞー
俺の死に様は ドズル・ザビのようにありたい


 俺も院長も自分にできることを100%出し切ったことには違いはないが、明暗は絶頂期と現在のマイケル・ジャクソンくらい、はっきりとわかれた。院長がステージに上がったとき、オーディエンスとコール&レスポンスが沸き起こり、多くの者が歓声を上げたり、拍手したり、タオルをまわしたり、飛び跳ねたりした。俺のときは終わった後パラパラと拍手が起こっただけ。MCが問うまでもなく勝敗は決していた。
「タダシが先だったら、ここまで差はつかなかったよ」
 柿崎さんは慰めてくれたが、いずれにしろ負けていたことには変わりはないだろう。大会は院長が順当に決勝まで進出し、飛ぶ鳥を落とす勢いで決勝に勝ち上がってきた柿崎さんと対戦。柿崎さんはTHA BLUE HERBを意識したリリックで戦ったが、「所詮二番煎じはオリジナルに勝てない」という院長のリリックによって撃沈。終わってみれば院長の一人舞台だった。ケータイ小説家アップルさんは準々決勝まで勝ち上がったが、ぶりっこ看護師のナナちゃんによる萌え萌えラップに僅差で敗れ去った。ブルース・リーマニアの梨田は何を勘違いしたのか、ブルース・リーの怪鳥音や名言を「Don't Don't think thi thi アチョー feel ウーアタッ feeeeeeeeeeeeel」てな感じでヒューマン・ビート・ボックスを披露して、それはそれでかっこ良かったのだが、主旨と違うので1回戦で敗退した。
 病室に戻ると床の俺の首が、虹色アフロヘアーのピエロのメイクをして、イチゴのないストロベリーショートケーキをむしゃむしゃ食べていた。彼には手がないので、パン食い競争のような形相と必死さでもってストロベリーショートケーキを食うわけあるが、床についた生クリームもスポンジのカスもひとつ残らずぺろりと舐めるので床はきれいだ。何故ピエロの格好をしているのか訊いたところ、俺の応援に来てくれたらしいのであるが、始まる直前に刑事さんに事情聴取をしたいから取調室まで来てくれと言われ、彼の脇に抱えられて連行されたそうだ。「『君は何者なんだ』と言われたから『本人に聞いて下さい』って言っておいたよ」と床の俺の首は言ったんだが、俺が聞きたいくらいである。
 それを発端に口論になり、彼が俺の裕木奈江好きをバカにするので、彼女のかわいさについて熱く語り、にもかかわらず床の俺の首が堀北真希の方がかわいいと抜かすので、30すぎにもなって「バカかこのロリコン野郎」とディスしたところ、彼のアフロは興奮のあまりサザエさんカットに変化して怒涛の如く怒りまくった。で、俺とお前は一心同体なわけだから、結局のところロリータフェイスが好きなんじゃない? ということで話がまとまりそうになったのだが、叶姉妹の美香さんも捨て難いと床の俺の首が言い、それは俺にとって許し難い発言であったわけで、取っ組み合い噛み付き合いのケンカになって大騒ぎになっているところに、看護師のナナちゃんが通りかかって「喧嘩両成敗だゾ。にゃんにゃん」と、俺と床の俺の首の頭を撫でてケンカはおさまった。
 ナナちゃんが行ったところで、床の俺の首が「お前も実はさとう珠緒みたいな女、嫌いじゃないだろ」と言うので「表立っては言えませんが」と耳元で囁いていたところに刑事さんがやってきて、取調室までついてくるように言ったのであった。
 ケンカで脱げたスリッパを履き直そうとした際、夢のなかでゾンビに噛まれた右足の踵の歯型が、以前よりくっきりしているような気がして不吉な気分になった。ウンジャラゲ。


 取調室は警察病院に隣接する警察署にある。関係者のみ利用可の通路を歩いていくわけだが、刑事さんは異様に早足だ。轟さんというその刑事には3人の女の子がおり、奥さんも含めてみんなおしゃべりだから、「集中して野球も見れやしないよ」といつか取調室でそんな他愛もない話をした。
「この春、長女が大学に行ったんだけど、案外寂しいもんでね。相変わらず下の子たちは賑やかだけれども、なんかね、物足りないんだ。俺って勝手な親だなあって思うよ」
 そんなことも言っていたっけ。テレビみたいにあの日はカツ丼が出てきて、ふたりで食べた。犯人死亡で決着したはずの事件が、犯人とまったく同じ顔、同じDNAを持った俺が出現して、終わったんだか、始まったんだか、わからなくなった妙な事件。
「エッシャーのだまし絵でも見ている気分だ」
 カツ丼についたまっ黄色なたくあんをボリボリやりながら、轟さんは漏らしたんだっけかな。
 早足な轟さんの足を少しでもスローにしようと話しかけてみる。
「東京へ行った娘さん、元気でやってますか?」
 強張っていた表情がいくらか緩むが、歩くスピードは緩まない。
「元気でやっているらしいよ。女房とはメールでよく連絡を取り合っているようだ」
「轟さんはやらないんですか」
 すれ違った看護師が轟さんに軽く会釈していく。
「一度やってみたんだが、時間がかかってね。やっとこさ送ったら『説教メールならいらない』って返事がきてよ、それ以来やってないさ」
 どんなメールを送ったのか想像がつく。子を想うあまりに冒す親の過ち。子どもらはその罪を許せるほど、まだ年を重ねていない。少しだけ轟さんを気の毒に思う。娘さんが父親の存在の有り難さ、尊さを知るのはいつになるのだろう。ずっと遠い未来か。いや、そんなことはない。それは、あまり遠い将来じゃないはずだ。結婚するときや、子どもが生まれて子育ての苦労を、身を持って知ったときとか、もし東京で一人暮ししているのであれば、たった一人で生活していく大変さを痛感するときもあるだろう。そんなとき、父親のありがたみを知る? んにゃ、ありがたく思われるのはだいたいが母親の方で、父親の方は僅かなのかもしれないな。
 病院と警察署を繋ぐ渡り廊下を歩きながら、そんなことを思う。歩く度、スノコがガタガタとうるさく鳴る。
「奥さんに頼んでみたらどうですか。轟さんがお父さんとして気になることを、奥さんのメールにそれとなく書いておいてもらうんです」
「毎回、悪い男にはだまされるなって書いてもらうのかい?」
 そう言って轟さんは笑ったがどこか堅い。今日は雰囲気がなんだか違う。取り調べって一体いまさら何を取り調べるっていうんだろう。もう話すことなんてない。俺は嘘なんて言っていない。ありのまんまを正直に話した。それは気の触れた野郎の狂った話だったに違いはないが。思い切って聞いてみた。
「轟さん、いまさら何を聞こうっていうんですか?」
 轟さんが急に立ち止まるので、斜めすぐ後ろを歩いていた俺は轟さんにぶつかってしまった。
「すいません」
 轟さんに謝るが返事はなかった。
「お前は一体誰なんだ?」
 轟さんと目が合ったまま、数秒間ふたりして立ち尽くした。
 俺は誰なのか俺は知らない。
 だから答えることはできない。
 轟さんはまた早足で歩き始める。取調室の前で足を止める。入ったことのない取調室だった。
「なかに取調官がいる。じゃあ、俺はここで」
 それで轟さんは行ってしまった。なんだか妙に素っ気なかった。
 ドアノブはこんにゃくでできていた。「えっ?」と思い、振り返って轟さんの姿を探すが、もう見えなかった。おかしい。あと50mは直線が続く廊下だっていうのに。
 仕方なくこんにゃくでできたドアノブをまわした。ぬるっとして、栗の花っぽいにおいがして嫌だった。
 取調室には床がなかった。いや、ないというのは正しくない。ガラス張りになっていて、下では相撲が行なわれていた。観客が桝席で弁当を食いながら、相撲を見ていた。部屋は縦長で手前から奥までのびたテーブルが置いてあった。椅子は手前側に一つと奥に一つ。壁は真っ黒けっけ。足を一歩も進められず臆していると「まあ椅子に座って」という声がした。それは頭ん中で響いた感じ。恐る恐る足を進める。魁皇が豪快な上手投げで安馬を土俵に転がすのが下に見えた。8歩ほどで椅子に辿りついた俺だが、人生で1番長く、奇妙に感じた8歩だった。椅子に座るとテーブルの向こう端に人の顔だけがのっていた。「君は誰なんだ?」
 向こう端の人の顔がしゃべった。直接俺の頭ん中に言葉を響かせてきた。
 その声は録音したときに聞く俺の声だった。
 そう、テーブルの向こう端には俺の顔があった。俺は逆に問う。
「お前は誰なんだ」と。ヤツと同じようにテレパシーで伝えた。
「俺はお前だ」
「ならば俺もお前だ」
「お前は俺の何だ」
「俺はお前のなかの俺だ」
「俺のなかのお前のなかの俺は何だ?」
「俺のなかの俺、出てこいや!」
 わけがわからない。そんなやりとりが延々と続く。下では白鳳が高見盛に寄り倒されて、さぶとんが舞っていた。俺はヤツと会話するのを止めた。
 俺は誰なのか。
 何者なのか。
 じっくり自分と向き合い考えてみることにした。記憶は以前の俺と今の俺の記憶がこんがらがっている。記憶のほとんどはプログラミングされたものらしい。以前は信じていなかったが、ゾンビが出てきたり、こんな取調室が存在したりするのだから、そんなことがあったっておかしくない世のなかなのだと思うようになった。実際に体験した記憶との住み分けが、全然できていない。そこんとこを、時間をかけてなんとか整理すると、大雑把だがわかりかけてきた。
 工場でもうひとりの俺を倒して、工場を爆破して、藤岡たちに助けられて、日本はそのときゾンビに支配されていて、仲間たちが犠牲になりながらも、俺だけは幸か不幸か生き延びて、銀行の金庫があっちの世界からこっちの世界へ繋がっていて、何も知らない俺はその通路を通って、このゾンビのいない世界についたのだが、こっちの世界の俺は銀行強盗をやって死んだんだけど、あっちの世界から俺がやってきたことをみんな知らないワケで、警察はてんやわんやになっているが、マスコミ的には完全にシャットアウトされている話で、そんな最中、俺は睡眠薬で深い眠りについている間にあっちの世界へ戻ってしまい、ゾンビに足を噛まれたところで、目を覚ましてこっちの世界に戻ってきた。で、病院でのラップバトルは一回戦負けし、部屋に戻ったら取調室へ連行。
 ということはだ、と呟いて右足の踵を見つめる。歯型がついた部分がいくらか腐りかけている。
「俺は、お、俺は、俺じゃなくて、ゾ、ゾンビかもし・れ・な・い!」
 テレパシーでなく大声で叫ぶようにテーブルの向こうのヤツに伝えた。声の勢いでヤツの顔は粉々にふっとんだ。赤い血が壁に飛び散り、ゾンビのように見えるシミができた。黒に赤は見えにくい。気のせいかもしれない。つーか、そんなことどうでもいい。
 次の瞬間には床がなくなって、俺は朝青龍と稀世の里の結びの1番が行なわれている土俵のカドに、背中から落ちた。一瞬静まる会場。行司の木村庄之助が「残った! 残った!」と同んなじ甲高い声で「ゾンビぢゃ! ゾンビぢゃ!」と叫んだ。すると会場から「シバいたれ~」、「殺せ~」という声が響いた。座布団が飛ぶ。朝青龍が俺を睨む。尋常ではない殺気を会場全体から感じ、花道を走って逃げたわけだが、なかなか前に進まない。それもそのはず、俺は顔も体も全部、正真正銘のゾンビになっていた。まあゾンビのわりにはなかなか走れる方じゃなかろうか。
 なんとか外に出て、両国国技館の前につけていたタクシーに乗り込んだ。すると運転手の女は悲鳴を上げて逃げていったので、自分で運転した。が、あまり目がよく見えなくて蛇行運転しながらしばらく走った。バーミヤンが見えたので駐車場に止めようとしたのだが、アクセル加減がうまくコントロールできなくて、バックで店に突っ込んだ。それでも店の店員はとても素敵な笑顔で俺を迎えてくれた。胸には「研修中」のプレートをつけていた。俺はオーギョウチを頼んだのだが、今はもうなくなっており、「フルーツオーギョウチでよろしいですか」と新人さんは申し訳なさそうに言った。そんなのは嫌だったが、店を破壊した手前文句も言えないので、大人しく大人らしく「それでいいです」と言っておいた。
 そんなわけで俺は今、遺書の続きをバーミヤンで書いております。これが最期になるかもしれません。
 みなさんお元気でしょうか。
 フルーツオーギョウチはいつまでたってもきませんでした。でもまだ書くべきことがあるので、気にせずに書き続けたのです。


 ゾンビは人を襲うものなのに、逆の立場になっております。ゾンビ狩りに今まさに遭おうとしている私なのです。バーミヤン周辺は取り囲まれてしまいました。おそらく店内には人はいない。確認していないからわからないけれど、フルーツオーギョウチも来ないし、水も持ってこないし、そういうことなんじゃないでしょうか。警察もそこんところ確認出来次第、突入してくるでありましょう。
 思えばわけのわからない人生でありました。このように破天荒で支離滅裂な人生に振り回された人物は私のほかいるのでしょうか。いるんだったら、連れて来いや。多分、てゆうか間違いなく俺の頭ん中は狂ってる。確信は持てないけれど、やはり自分は工場なんかで製造された人間じゃなくて、普通に母親のお股から産声を上げて出てきたと思うわけで、それがどこかで自分はキチガイになってしまい、それについてはおそらくですが、自分から望んで狂ったような気もするのであります。なぜかって? いつかも書きましたが人の生きる道ってえのは辛いからですよ。みんなどおしてあんな平気な顔して生きているんだろう。武士は喰わねど高楊枝なんてとんでもない。いつだったか永ちゃんことEIKICHI YAZAWAさんのコンサートを拝見したのですが、常にEIKICHI YAZAWAっていう人間を演じ、本当の矢沢永吉本人を少しも見せないで生きるあのお方は、武士のなかの武士だと思った次第であります。私、田中正にはあのような生き方はできません。憧れることすら許されません。だって「生まれてきたくて、生まれてきたんじゃないやい」と叫びたいくらいの甘ちゃんだからです。
 あ、話は変わるけれど、さっきオーギョウチがないって店員に言われて「フルーツオーギョウチでよろしいですか?」と訊かれたとき、「それでいいです」と私は言いましたが、その言い方は場合によっては失礼な発言になります。浮気が発覚した際「あたしとあのコとどっちが大切なのよ!」と言われたとき、「あなたでいいです」ではなく、「あなたがいいです」と言った方が間違いなく良い。あと飲食店の接客でお客から「水まだ来てないんですけど」と言われたとき「少々お待ち下さい」と言うのではなく「かしこまりました。すぐにお持ち致します」と言う方が、接客として正しいそうです。接客の本に書いてあったんだ。
 あとねあとね、花屋でバイトしていた経験があるのですが、うまく花束がまとまらなかったとき「野の花風にしてみましたあ」と言って渡すと、少々バランスが悪くてもお客さんは結構満足して「まあかわいい!」なんて言ってくださるわけですな。物は言い様です。
 私は大変な口下手でして、物は言い様なのに、どうしてもいつも悪いようにしか言えません。「あんなふうに言うんじゃなかった」ってことが多々あります。それに加え、自分では気づかないけれど、相手を傷つけたり不快に思わせたりしていることもあることだろうな。
 そういうことをイチイチ考えると、自己嫌悪に落ちたり、生きるのが面倒になったりで、憂鬱な気分になるわけです。そんなわけで生きるためには繊細さが要求されるようですが、あたしはもう疲れましたので、そろそろ失礼致します。
 ちょうど良くどこかに隠れていた研修中の店員がフルーツオーギョーチをようやく持ってきてテーブルに置き、「それがいいですだろ!」とわけのわからんことをいきなり言ってブチ切れて、俺の顔をオーギョウチの入った小椀に叩きつけた。それで、包丁で頭を一刺し。後頭部から尖った包丁が入っていく感覚は、女性が陰部に男性を受け入れる感覚に似ているんじゃないかと勝手に思ったわけです。
 プリンスが「パープルレイン」のギターソロを弾いている映像が見えた。ギターが喘ぐたび、恍惚の表情を見せる殿下。彼は音楽とセックスしていた。俺は殺意とセックスして死んだ。遺書が、血と緑色した俺の体液でヌルヌルに染まっていた。
 死んだ次の瞬間、幽体離脱した俺。死んだ自分を上から眺めていた。警察が慌てて突入してくる。研修員は床に座り込んで放心していた。頭を刺された俺はピクピク痙攣していた。
 そんな俺を後目に俺自身は厨房に入り、オーギョウチをたらふく食べて、職員通用口から外へ出た。が、そこは恵比寿スタジオの2stで三島由紀夫がレモンを持って週刊ザ・テレビジョンの表紙撮影に挑んでいた。フラッシュで目がくらむたびに、古民家で首吊り自殺した俺の姿が瞼の裏に映った。
 3stではlostageの撮影が終わって、メンバーのインタビューが始まったところで、アシスタントが機材の片づけを始めていた。カメラマンはスタジオの隅でタバコを吸っている。その煙に俺はむせた。咳をすると口から脱臭剤のツブツブがボトボトと出た。
 エレベーターで地下の駐車場まで降りる。三階でジョージ・ブッシュと新垣結衣と坂上田村麻呂が乗り込んできた。エレベーターが地下1階に到着。
 が、ドアが開くと、そこには06年ワールドカップのオーストラリア戦直前、ピッチへ繋がる通路に並んでいる日本代表チームがいた。「ラスト10分で3点獲られるよ」とは言えなかった。歓声が聞こえる。通路の先の光がピッチに繋がっている。日本代表チームの列の最後について、その光を目指した。歓声が大きくなる。心臓の鼓動が速く強くなっていくのがわかる。光に近づけば近づくほど、眩しさは強くなった。とても正視できない。そのまばゆさにクラクラして軽く貧血を覚えた。一旦立ち止まって壁に手をつく。いつものようにすぐ回復すると思った。だが、違った。スーッと頭から血の気が引いて、倒れた。気が遠くなりながらも、光に魂が吸い込まれて行く感覚をはっきりと感じた。そして最期に射精したときのあの感覚が脳天から足先まで稲妻のような速さで突き抜けた。
 その後何秒か、俺は気を失ったらしい。気がつくとやはりそこは眩しかった。嫌な予感がした。
 そこは分娩室だった。
「がんばった甲斐がありましたね。元気な男のコですよ」
 看護師が母に言う。俺は泣いて泣いて泣いて泣きまくってた。
 またかよ。
 もう人生なんてうんざりだ。


         *


 人間製造工場の地下。
 もう一人の俺に殴られて意識を失いつつある俺。痛みは感じない。恍惚感と絶頂感のなかで春子をバットで殴り殺す映像を見た。それは最近よく見る夢だった。
 高校時代から使っている木製バットで、眠っている春子の頭を何度も何度もぶっ叩く。バットを振り下ろすたびに興奮する。それは性的な高揚感に似ている。春子は最初の一撃で即死し、その後は死んだ彼女の身体が悲鳴を挙げる。骨が砕ける音、血が飛び散る音。死んだはずのその身体は殴られるたびにうめき声を挙げた。それらは喘ぎ声にも似ており、性的興奮の頂点に達する。俺はたまらずズボンを脱ぎ、下半身を露出する。白く濁った体液が、肉の塊と化した春子の面を汚す。栗の花の匂いと妻が使っていた香水の匂いが、混ざり合うことなく共存しあって、部屋中に漂った。俺はあまりの快感に腰を抜かす。ピンク色の絨毯が血で真っ赤に染まっていた。その赤はこの世界でもっとも邪悪な赤。濁りなき邪悪。故に限りなく純粋で透明な赤でもある。そのとき、すべての音は消滅していて、唯一、俺の鼓動のみが身体の奥で低く響いているのだった。
 その赤さにクラクラ眩暈を起こし、目を覚ます。
 そこは見慣れた部屋、春子と暮らしている部屋。
 あれ?
 俺は死んだんじゃないのか?
 工場でもう一人の俺に殴り殺されそうになっていたはず。
 現実、妄想、現在、過去、未来、夢、記憶がこんがらがって、何が本当なのかわからなくなる。
 確かなのは俺が鬱病だということだ。
 いや、病気じゃなくて狂っているのか?
 唯一の救われる思いがしたのは、妻を殴り殺す悪夢を見て、どうしようもない罪悪感に襲われたことである。俺はまだ人の心を持っている。
「ね子」がキャットタワーの上で眠っていた。ゾンビにはなってない。春子はいない。仕事に行っているのだと直感する。ポンコツのテレビ、愛着のあるステレオ、使い古した洋服ダンス、床に散らかった俺と春子の部屋着、無造作に積み上げられたCD、両親から結婚祝にもらった振り子時計、対になったマグカップ、リサイクルショップで購入した木彫りの仏像。記憶のままに、いつものように、そこにあった。
 世界は何一つ変わっていないように見えた。日本がゾンビだらけになったあの現実、春子や「ね子」がゾンビになったあの記憶も、何かの夢か、気のせいだったか。
 俺はそこでハッとする。
 世界がいつも通りであろうが、街中がゾンビで溢れようが、生きていくことは悪夢。
 悪夢だっだっだっだっだっだっだっだっ。
 それは記憶と妄想の狭間で迷走する俺の存在よりも、確かな真実なのである。
 狂ってしまいたい。
 心の根っこでは、それを望んでいた。


 隣の部屋に何かの気配を感じる。見るまでもなく、そこに何がいるのかわかった。撲殺された春子の死体。夢で見た凄惨な光景がそこにあった。
 昨日の夜、底知れぬ不安感で吐きそうになっていた。生きて行くことが嫌で嫌で嫌で。鬱病は苦しいだけで、俺を中途半端に狂わせるだけで。現実がわからなくなるほど狂ってしまえたらいいのに。
 そんなわけで、0時過ぎに寝床に就いたが、1時になっても2時になっても眠れなかった。俺の頭ん中は自己嫌悪的な妄想で台風。風に吹き飛ばされ、引き千切れる記憶。
 春子は気持ち良さそうに眠っており、かわいらしく寝息を立てていた。俺の心の底には殺意が。
 きっとこれは気のせいだと、やり過ごそうとする。春子に対して殺意が沸いてくるはずなどない。しかし気がつくと、玄関に立て掛けておいた木製バットを握り締め、眠る春子を見下ろしていた。
 手にしたそのバットは、3週間前の土曜に調布市民球場で火を吹いた。3安打4打点。ただそのバットを持ってさえいればいいだけの話だった。試合は6対0の完勝。試合後に飲んだビールは最高にうまかった。応援に来ていた春子は少し誇らしげだった、ように見えた。
 瞼の裏にそのときの春子の表情が浮かぶ。
 吐き気が増した。俺のなかで殺意が膨らむ。俺はわけのわからん得体の知れない不安感にヤラレるのか? 嫌な汗が一筋にバットを伝って落ちる。
 その直後、スローモーション。
 夢であってくれと俺は願い、バットを垂直に振り下ろした。


 振り下ろしたバットが、ピッチャーの投じた渾身のストレートを見事に捕らえる。打球は快音と眩い残像を残して左中間に飛んだ。
 春子を殺してから、都内で路上生活をしながら逃げ回っている。草野球の親父たちはろくにニュースも見ないのか、俺が指名手配犯だなんて誰も気づきはしない。それに運がいいことに春子を殺したその日に、アメリカが北朝鮮を攻撃した。ピョンヤンの空は一瞬にして真っ赤に染まった。戦争のはじまりはじまり。ニュースや新聞は毎日その話題で持ちきりだ。アナウンサーや評論家がああでもないこうでもないと言い合っている。日本政府は自衛隊を戦地へ派遣するという狂った発表をし、それに反発する人々が各地で盛んにデモ活動を行なっているのであった。そんなときに起きた殺人事件なんてまともに扱われるはずはなく、つまりバカなアメリカのおかげで、俺の人生は延命工作を施された。
 転職した今の俺の仕事は代打屋。毎週末、草野球場に顔を出しては仕事する。ヒットを打てば1000円獲得。二塁打は2000円、三塁打は3000円で、ホームランを打てば5000円だ。打点がつけば、一打点につき1000円プラスされる。失敗したら人数分の缶ビールを収めなくてはならないのだが、これまでミスった打席は一度もなかった。12打数12安打。いつも一打大量点の場面で起用される俺は、打ちも打ったり、6万円を稼いだ。ここ1ヶ月の路上生活を、わりと快適に過ごしている。
 打球は左中間を転々と転がった。左翼手と中堅手の親父は、歳も歳だからまともに打球を追えていない。ランナーが一人生還する。もう一人のランナーも楽勝でホームを陥れるはず。自分が生還できたらサヨナラ。走りながら早くも皮算用をする。今日もうまいビールが飲めそうだ。
 もちろんこんな都合のいいことが長く続かないことはよくわかっている。近いうちに凡退する日がくるだろう。そうは長く好調は維持できまい。そして、俺はいずれ警察に捕まり、裁判もろくに行なわれないで殺されるに違いない。だからこそ捕まりたくないわけで、全速力で逃げる。身体が千切れるほど全速力で。
 2塁ベースをまわったところで足がもつれた。ここ数日の睡眠不足が祟ったようである。だが、走ることをやめるわけにはいかない。それを自分に言い聞かせて走った。中継プレーに入った遊撃手がボールをファンブルしたのを左目の隅で捕らえた。3塁コーチはストップのジェスチャーだったが構わず、3塁ベースを蹴った。行けそうな気がしたのだ。しかし、途端に重くなる俺の両脚。行く手を遮る風。昨夜の雨でぬかるんだ土がスパイクの裏に纏わりつき、激走の邪魔をする。速く走ろうとすればするほど、身体は重くなっていく。春子の声援は聞こえない。
 俺はホームベースで憤死するのか?
 そんな不安が脳裏を過ぎった。
 なのにその次の瞬間、言葉では言い表せない充足感に満たされていたのであった。いや、この充足感は春子を殺ろしたあの瞬間からずっと続いていた。そのことに気がつく。
 春子を失った悲しみと、彼女を殺した罪悪感が、生きている実感を与えた。警察に捕まる恐怖、死への恐怖が、生きていることのありがたさを俺に教えた。
 日々を惰性で過ごして、うっすら発狂した挙句に、妻を殺した人間以下の俺は、それでも生きたかった。
 なんのために?
 理由なんてない。
 生きたいから俺は生きたいんだ。
 だから俺は逃げる。
 以前の俺は、生きることを許されているにも関わらず、生きたいと思いはしなかった。
 だが今、生きることを許されない俺が、必死に生きたいと願っている。
 皮肉な話。バカみたいな話。
 結局、ホームベースの1m手前で憤死。
 大の字になって3塁線上にぶっ倒れる。空はやけに青かった。遠くに見慣れた赤い屋根が見えた。あれは人間製造工場の赤い屋根。

(了)


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by nkgwkng | 2018-03-08 07:00 | とっ散らかった言葉
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